電車の中で、ぐずっている子供とか、泣いてる赤ちゃんを見ると、

足りてないんだな…

と、思えてきたりします。



なにが足りてないかって、  






愛が  です。





愛してほしいと思ったときに
望んだように愛されたい




それが

赤ちゃんに限らず

私たち大人にも言える、共通の願い。



夫婦に会話は大事といったって
いつもいつも、話していたいわけじゃない。


たまにはひとりでボーっとしたり、
テレビドラマに集中していたり、
だいじなLINEへの返信をしていたりします。


かまってほしいときと
そうじゃないとき


そこをちゃんと見てよね
私のこと愛してるなら…





それが本音かな?




そこまで無言のうちに分かり合えるのは
パートナーシップとしては
かなりハイレベルな方かとも思いますが、



普通に他者を思いやる感覚や
まわりに対する配慮があれば



今その人がどうしてほしいのか
おのずとわかってきそうなものです。




子供についていえば

喉が渇いたときにこそ、水が用意され、

歩けるようになってはじめて、靴が与えられ、




そんなふうな



ごく当たり前に思えること。




それが心についても満たされているのなら

大人になって欠乏感で  

なんだかちぐはぐなことをやらかしたりして
失態をさらすことは
ないのかもしれません。





いや、

誰だってね

すべてを望んだように与えられてきた人間なんて

ないですよ。



誤解や勘違い、自分と相手の都合、そのときの状況


いろんな要素が絡まりあって


不足感なんてそこかしこにあるもんです。




だから





だからね




私たちは

自分で自分のことをかまってあげられる知恵とか技術なんかを


もてるんだとは  思えませんか?





与えられなかったことは

不幸なことだとしても

そこを文句言いつづけるなら

それは、自己責任。




きつく感じられたのなら
ごめんなさい。



癒しの途中にあるひとには
痛い言葉だと思います。




でもね


最終的には


ぜんぶ自分なんだってところで


はっ    と、気づけるか? なんだと思いますよ。




気づくためには

見る  ことが必須になるかと思いますが…。





頼んだものが
間違いなく与えられる人生なんて
なんの学びもなく
つまんないと思います。



頼む、というのは  その相手に対して
全投げ、まる投げしている状態。


自分のことを  誰かにお任せしちゃてるのと、おんなじ。



それは
頼まれた方だって 重たい。



他人の人生に責任者、、もてないから。

マジ かんべんしてよ   そう思いますよ。

倚り懸かりすぎないでくれってこと。


自分の不足は、自分でなんとかしようよね、いつまでたっても 誰かになんとかしてもらおうなんて、そろそろ卒業しないと




誰からも…なんてことに?ならないにしても

自分で自分の人生を受け持つこと

この覚悟はもっていただきたいもんです。





子供に対してだって
何でもかんでも、親である私のせい?
と、思われますか?

それは、違いますよね。


大人になってからのことは
本人の責任だとは思いませんか?

もし、自分のせいと思いたがっているのなら、
それは、その子に対して、いつまでも影響力を握っていたい気持ちの裏返しなんだと思います。

極端な言い方だと
支配していたい… 。 

母親としてね
子供を牛耳っていたい、という願望。



他人に甘えていいのは
お互いさま、といえる間がらでの中での話し。
その人に恩返しできないなら
その頂いた恩を、他の誰かに循環させてもいいわけだし。


よくよく

自分で寄って立つ ということは
本人の覚悟みたいなものが
ちらほらと垣間見えるものですね。




この現実は
私がつくった

だから未来も  自分でつくる




そこ


本気で取り組めたら


たのし〜〜人生  ^o^  に違いないです。




だから、今日のタイトル

頼んだものがでてくるのはレストランだけ

ってことで

本日は締めくくろうと思います。


{029E5430-DE38-4727-8AD1-08DC4FD86DE7}

甘えることが
いけないことなんじゃなくて
結果を自分で引き受けることが
大切なこと



くれくれ! じゃなくて
はい、どーぞ!  と言えたらいいよね。



最後までお付き合いくださって
ありがとうございます ‼︎ (^∇^)