NHK大河に「明智光秀」 誘致活動が奏功 7年かけて署名集め

 

NHKは4月19日、2020年放送の大河ドラマを戦国武将、明智光秀を主人公にした「麒麟がくる」に決まったと発表した。主演は俳優の長谷川博己さん、脚本は池端俊作さんが担当。大河ドラマで光秀の主役は初めて。丹波市、篠山市など兵庫県、京都府、福井県の11市町で構成するNHK大河ドラマ誘致推進協議会が2011年に結成以来、誘致活動を進め、26万1774筆の署名を集めるなど、7年間の息の長い活動が実を結んだ。

 丹波地域には主君織田信長の命を受けた光秀による丹波攻めの跡が残る。丹波市では、荻野直正(赤井悪右衛門)との戦いの舞台になった春日町の黒井城跡、黒井城落城の後、光秀の重臣、斎藤利三が下館として居を構えた現在の興禅寺。篠山市では八上城跡、籾井城跡などがある。また、八上城と黒井城を見渡せる金山城は光秀が砦を築いた。八上城や黒井城にまつわる物語は小説にも取り上げられている。

 

 

丹波新聞の記事がありましたのでご紹介します。光秀ゆかりの地は想像以上に多そうです。

 

多くの人が楽しみにするであろう大河ドラマ・・・。

 

そのゆえ、脚本も超重要になってきます。

 

今後、どのような動きになっていくのか。注目します。

 

 
 

 

2020 大河ドラマ 制作・主演決定!
脚本 池端俊策 主演明智光秀長谷川博己

大河ドラマ 麒麟(きりん)がくる

 

話題になっておりました、2020年大河ドラマですが明智光秀に正式に決定しました。

 

今回のドラマでは今まであまり知られていなかった光秀の前半生も描かれるようです。

 

前半生を過ごしたと思われる岐阜県をはじめ、光秀のゆかりの地はかなり多くありますので、盛り上がると思います。

 

ただし、どのような脚本になるのか。

 

要注目となりそうです。

 

光秀大河ドラマ化により、明智憲三郎氏の存在もスポットをあびることと思います。

 

 

 

 

20年大河「明智光秀」有力、新人物像と家族の絆軸

 

2020年のNHK大河ドラマが、戦国武将の明智光秀を主軸に描くプランが局内に浮上していることが17日、分かった。関係者によると有力候補として検討されているという。

 光秀は、主君の織田信長を討ち滅ぼした謀反人や三日天下など、一般的には好印象の人物ではない。出自も謎が多く、本能寺の変に至った動機も諸説あるなど未知の部分も多い。一方で、時代の転換期に大きな影響をもたらしたキーマンだ。軍師として知略に満ち、義に厚く、勤勉で学問好きなまじめな男として高く評価する声もある。

 さらに愛妻家としても知られ、妻煕子(ひろこ)のほかに側室をおかず、ただ1人を愛し続けた人物。今年は幕末を舞台にした「西郷どん」、19年の大河は近現代が舞台の「いだてん」。20年に人気の戦国時代を扱うのは自然な流れ。光秀を描くとなれば、新しいイメージの光秀と家族の絆がテーマになるとみられる。

 

 

明智光秀が大河ドラマの主人公の候補になっているようです。

 

明智光秀といえば、このブログでも何回か取り上げている、光秀の末裔と伝わる明智憲三郎氏も大河ドラマ化を望んでいて喜んでいるのでしょうか?・・・参照記事はこちら

 

そうすんなりとはいかないと思います。

 

やはり「狙い通りに来ていますが、拙著が原作にならねば意味がありません。定説でやられたら最悪。」とコメントされておりました。

 

NHKの大河ドラマは歴史の専門家が検証するようですが、それでも番組の内容が問題となることは多々あります。

 

なかなかすべての人を満足するような内容は難しいものでして、明智光秀が大河ドラマの主人公になれば話題になることは確実でしょうが、その中身は賛否両論になりそうです。

 

まだ光秀に関しては不明な部分が多すぎます。それをどう扱うのかは難しそうです。

 

例えば、この記事ですと光秀は側室を持たなかったとなりますが、となれば、さっそく光秀の側室の子孫であるという明智憲三郎氏らの存在を否定することになります。

 

かといって、憲三郎氏の説通りにドラマを進めれば、既存の学者からの反発は多すぎるでしょう。

 

でも、「明智光秀」の大河ドラマが実現したら注目されるのは確実ですので、実現されることを望みます。

 

 

 

2月11日の日曜日ですが、安城歴史博物館にて「第8回松平シンポジウム」が開かれて参加してきました。

 

 

このシンポは当日の中日新聞にて記事が載りました。

 

この宣伝効果は大きく、当日の会場にはなんと370名も参加して満員で立ち見の者も大勢おりました。当初は180名を予定していたようですが、印刷物がなくなってしまい、大変だったようです。

 

先日は福井県で56以来の大雪でした。昭和56年以来の歴史的大雪なわけです。富山県も福井ほどではありませんが、かなりの雪だったようです。その富山から萩原氏が愛知県までやってきてくれました。

 

今回の内容は「信長御在世のときの如く  織田体制の中の家康」という内容でした。

 

「清洲会議以降の羽柴秀吉と織田家臣団との関係について」をまず首都大学東京教授の谷口氏が発表。

 

そして次に「徳川家康の五カ国領有と関東関係」を東洋大学講師の柴氏が発表。

 

そして萩原氏が「織田体制の中の家臣団の動向  佐々成政と徳川家康」を発表しました。

 

現在は21世紀。

 

20世紀的な価値観からはそろそろ脱却したいものです。

 

三英傑にせよ、実像とは違う通説が広まっております。今後、これまでの誤った通説は見直されていってほしいです。

 

例えば、清洲会議。

 

通説ではここで三法師を秀吉が持ち上げ、天下取りが始まったとみられますが、実際のところ、この清洲会議の時点では羽柴と柴田の間に争いはなかったようです。仲がよかったかどうかはわからないですが、宿老体制は維持されており、敵対関係はなかったわけです。

 

また家康も織田体制をささえる存在と認識されております。

 

柴田勝家らは早く、織田体制を安定化して信長の天下統一事業を継続すべきだと考えていたわけです。

 

北陸では当初、柴田勝家、前田利家、佐久間盛政、佐々成政らで上杉にあたっていたのが佐々成政一人で奮闘している。関東では滝川が引き上げていて、旧織田領は狙われている。早く、体制を戻さないといけない。その他、秀吉は対毛利戦線に戻るべきであるし、丹羽や織田信孝は四国攻めを開始すべきであると考えていたわけです。

 

が、秀吉は織田家のっとりをはかったわけです。でも、直接楯つくと明智光秀と同じ謀反になってしまうので、織田信孝・信雄兄弟の対立を煽ったわけです。

 

勝家はそれに巻き込まれ、上杉どころではなくなってしまったわけです。見通しが甘かったといえばそれまでですが。秀吉が身分が低いので嫌ったとかそういうわけではなく、主君である織田家乗っ取りに対抗したということです。

 

佐々成政も従来の通説は否定されなければなりません。

 

今回の萩原発表でもありましたが、成政は上杉と対峙しておりました。上杉は主君である織田家の敵でもありました。

 

ところが、その上杉と秀吉が組んだわけです。織田信雄を奉じる秀吉と織田信孝奉じる勝家が対立していて、必然的に成政は秀吉と敵対するようになってしまったわけです。

 

そして秀吉は勝家に勝利。成政は金沢まで赴き、秀吉と和睦。今後は織田信雄に忠誠を誓うと約束したわけです。ちなみに、この時も成政は頭を丸めたとの史料もあるようですが、この時は頭は丸めておりません。そして、秀吉は思ったほどの協力を上杉がしなかったことで、上杉に不信感を持ち、成政は越中安堵。

 

その後、成政が主君と崇めていた織田信雄が秀吉と対立。信雄は家康に協力を頼むわけです。

 

当初、成政は秀吉方だったのですが、織田信雄・家康サイドの働きかけもあり、悩みながらも主君信雄サイドにつくことを決め、北陸にて秀吉方の前田と対立。前田勢らを現地にとどめるとともに上杉も牽制。上杉の徳川領への侵入を牽制しました。領国をほとんどカラカラにして尾張まで来ていた家康にとって成政の存在は大変な援護射撃だったわけです。

 

ところが、信雄が秀吉と講和。家康も大義名分を失いました。

 

北陸で状況のわからない成政は快挙とも暴挙ともいえるさらさら越えを敢行。家康・信雄と対面します。

 

これは家康に対してではなく、信雄に対して対秀吉戦線継続を願いでたわけです。このままでは織田家は秀吉に乗っ取られてしまうという思いから。

 

しかし、尾張の国も想像以上に疲労していて信雄も戦争継続の意思はなくなっておりました。小牧・長久手の戦闘では家康は勝利しましたが、秀吉も多くの武将を失った怒りから尾張国じゅうを焼き払っていたのでした。成政もその状態を確認しました。そして武士の意地で対秀吉戦継続すると越中国民が大変なことになるとさとり、秀吉に降伏することを決めたわけです。

 

家康と成政の連携はさらさら越え以降も続いていたわけです。

 

成政と家康の連携は依然として、秀吉にとって脅威であり、秀吉は家康にいろいろ成政に協力しないように厳しい要求をしたわけです。その中で家康はできる限りの協力は成政に対してしてきたわけです。

 

今回の萩原発表では、秀吉の越中攻めのとき、家康に反旗を翻した真田昌幸を攻めたのは成政への援護射撃だとのことです。それについては今後の研究の成果を待ちますが、今回の出席者たちも成政と家康の良好な関係はさらさら越え以降も続いていたことは確実であろうとの意見でした。

 

21世紀の現在、20世紀のステレオタイプの通説はどんどん翻っていってほしいです。

 

 

 

 

 

 

 

あけましておめでといございます。

 

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

 

本日の中日新聞にですが、佐々成政の黄金伝説の記事が紹介されておりました。以前は金沢から金属探知機をもってやってくる人もいたそうです(笑)。金属探知機はとにかく、なぜ金沢から来るのか・・・(笑)。

 

今は埋蔵金を探す人もほとんどいないそうです。ほとんどということは今でも探している人は少なからずいるわけですね・・・。発見できるといいですね(笑)。

 

大山では毎年夏、埋蔵金探しのイベントが行われ、賑わっております。

 

これこそが、佐々成政からの富山への最大の贈り物の一つかもしれませんね。

 

 

この記事は昨日の中日新聞の記事です。

以前に紹介した帰雲城の埋蔵金伝説です。

こちらのほうが信憑性はあるかもしれません。佐々淳行氏の兄が熱心に調べておりました。

 

城の位置さえまだ推定できておりません。発掘調査できるといいですね。

 

では今年もよろしくお願いします。

こんばんは。先日、成政からみの記事が出ておりましたので紹介します。

 
 

世に「埋蔵金伝説」は少なくない。徳川幕府が群馬県・赤城山に埋めたとされる伝説はよく知られているが、北アルプス・立山連峰にある鍬崎山(くわさきやま=標高2090メートル、富山市)にも、戦国武将、佐々成政(さっさ・なりまさ)にまつわる伝説が残されている。

 

 成政は、尾張国(愛知県西部)に生まれ、14歳のときに織田信長の小姓となった。長篠の戦いでは、鉄砲隊を率いて武田勝頼軍を打ち破り、「佐々鉄砲隊」の名を世に示す。二段撃ちの戦法を確立したとされ、信長の信頼を得て、富山53万石の大名に出世する。

 

 そのため、成政は、本能寺の変で信長亡き後、天下取りの野望を抱く羽柴秀吉に反旗を翻す。徳川家康に再起を促すため、成政は真冬の立山連峰を越え(=さらさら越え)て浜松に向かった。ところが、家康は秀吉と和睦し、成政の誘いには乗らなかった。

 

 やむなく引き返すも、すでに富山城は秀吉軍に包囲され、天正13(1585)年8月、ついに成政は秀吉の軍門に下る。このとき、「いつか必ず再起を果たす」との決意から、鍬崎山に莫大な軍資金を隠したとされる。

_その後、成政は、秀吉の九州征伐に従い、天正15(87)年、肥後国(熊本県)に国替えとなる。同年、肥後国で一揆が発生し、秀吉から責任を問われ、翌年、切腹する。

 

 成政がかつて治めた富山市大山地区には、こんな里歌が残っている。

 

 《朝日さす夕日かがやく鍬崎山に/七つ結び七結び/黄金いっぱい/光かがやく》

 

 これが軍資金の隠し場所を暗示している、と伝えられている。

 

 「朝日さす夕日かがやく」「光かがやく」の意味は? 「七つ結び七結び」とは7と7を掛けることだが、「49」は一体何を指すのか?

 

 ちなみに、鍬崎山周辺には鉱山が少なくない。古文書には「越中七かね山」と称し、下田、川原波、亀谷などの名を挙げられている。中でも、亀谷銀山は良質の銀が採れ、家康、秀忠親子に大判の「花降銀」1000枚が献上されたという。

 

 このため、成政にまつわる埋蔵金伝説も、銀山に絡めた噂話に過ぎないという見方もある。 (ジャーナリスト・岡村青)

 

 

特に内容に関してどうのこうのはないのですが、成政が統治していた越中ですが、38万石くらいの石高との説から50万石以上との説まで少し開きがあります。この記事では53万石となっております。実際はどうだったのでしょうか?53万石が事実ならば、信長時代は能登しか支配していなかった前田利家に対して石高では相当リードしていたことになりますが。その事実を隠すためにのちに越中を支配した前田家は越中は50万石以上もない、38万石くらいで、信長時代は能登の利家より越中の成政は少し石高が多かっただけだということで、38万石説が出てきたのでしょうか?

みなさん、こんばんは。
 
今日の中日新聞に残念な記事がありました。
 
「信長読本 誤記だらけ」・・・。
 
上智大学名誉教授のコメントに現在の出版業界の現状が語られております。
 
今後も一冊あたりにかける時間や人員が減り、誤植が増えるという事態は減ってほしいものです。
 
別の本ですが、著名な先生が書かれた信長本でも、尾張時代の信長の内容に誤記だらけの本もありました。この著者は愛知県とは程遠い地域の出身でして、おそらく愛知県の地理には詳しくないのだと思います。ですが、地元の人ならばすぐに気がつく地名の誤りとかがあり、残念でした。地元に人にチェックしてもらうなどの必要性を感じました。
 
 
本はずっと残る可能性もあるものです。出版社は本を出すとき常に慎重に出版して一冊一冊大事にしていってほしいものです。