前回その1の続きです。
その1でざっくりとした青葉被告の生い立ちや背景で思うところを書いた。
本書では青葉被告に死刑判決が出た第一審の公判にも焦点が当たっている。
そこには、遺族、被害者の無念、苦しみ、怒りが記されていた。
その2では遺族、被害者による供述調書、陳述書の章を中心に思いを綴る。
最初にこのブログを読んでくださっている貴方は、
身近で、大切な人が亡くなられたことはありますか?
祖父母、両親、仲の良かった友人。
その時、どんな感情になりましたか?
僕は祖父母、父親が鬼籍に入りました。
人間には勝手に涙が流れる機能が備わっているのかと思うくらい、
とめどなく溢れてきたことを憶えています。
直近では昨年、父が心筋梗塞が主因で亡くなりました。
「胸が痛い」と言い出した翌週には旅立っていました。
意識がなくなって、何もしなければ止まっていた心臓を
薬剤で無理に動かしており、その影響で父の顔は本人とは思えない程、
膨れ上がってしまいました。
(家族がお別れをする時間をお医者さんが作ってくれた)
火葬の予定が数日後になり、
僕は父の遺体が置かれている霊安室に毎日通って、
父の様子を見守りました。
棺の中にはドライアイスが敷き詰められ、
遺体の腐敗が進むことはありませんでしたが、
心臓を動かすために投与した薬剤が父の鼻や耳から溢れていた。
そのままでは可哀そうだから、父の顔を傷つけないように
そっと拭いた。
先週まで生きていた父が目の前に横たわり、
もう動くことはない。
父との思い出が脳裏を駆け回り、
なぜ自分はもっと優しくできなかったのかと後悔がそそり立った。
でも、それで良かったんです。
お別れできましたから。
本書の話に戻りましょう。
公判では作画総監督として有名な池田晶子さんの夫の供述調書から、
(個人名を失礼致します)
娘さんが亡くなった母、夫が亡くなった妻、
京アニに入社して2年目で被害に遭ってしまった作画担当の方などの
苦しみが青葉被告へ向けられた。
苦しみと一言で書いたけど、
大切な人を殺された怒り
もう戻ってこない哀しみ
青葉被告が極刑になっても元には戻らない虚しさ
将来の団らんの喪失
身体に残った火傷
書ききれない程の感情が渦巻いていた。
遺族の陳述の中で、胸に突き刺さることがあった。
遺体と対面するかだ。
青葉被告はガソリンをまいて火をつけた。
大火で遺体の損傷は激しく、身元の判別は見てわからない状況だった。
所持品やDNA検査で身元をわりだし、
棺の中に遺体が入れられているようだった。
警察から遺族は対面するか確認する。
ただし、警察は損傷が激しいから「対面は勧めない」そうだ。
ある方は対面をしなかった。
変わり果てた姿を見たくなかった。
ある方はそれでも対面した。
遺族の一人の方は「遺体にほおずりした。顔にいっぱいキスをした」と話した。
別れを言えずに終えること、
生前の姿からはかけ離れてしまった遺体に別れを告げること、
どちらにしてもこの世の色は失われてしまう出来事だ。
ある遺族の方の陳述では、
「悔しさ、悲しみ、苦しみは今後一生続く。せめて憎しみをわずかでも取り除いてほしい」
青葉被告が極刑になったからと言って、遺族の苦しみは終わりでない。
青葉被告の無知、想像力の欠如、身勝手さで多くの命が失われた。
自分だけが不遇であるとの認識は幼稚すぎた。
京都アニメーションに入社するには血のにじむ努力が必要だろうし、
入社してからもその努力は続けていかなければならない。
本書の供述の中にも誰もが夢を持って、追いかけていたことが話されている。
自分の夢を追って、アニメを作って、
見る人たちに夢を与えていた。
一方、青葉被告は思っていただろう。
「俺ばかりなぜこんなにも不幸なんだ。
俺にこれ程つらく当たる世の中なんて壊してしまえ!」
夢を叶えていく京アニの方々と青葉被告、
両者の違いはどこにあったのか。
壁を乗り越えていく人とそうじゃない人
犠牲者の方だって、境遇が恵まれていなかった人もいるかもしれない。
それでも、少しずつでも壁を登っていった。
一方、青葉被告は登ることを諦めてしまった。
その違いなのだと思う。
青葉被告が犯行に至る原因の一つとして、「パクった」と言う妄想があった。
自身が書いて、京アニの賞に応募した小説の内容が京アニの作品に出てきたと言う。
それを青葉被告は「パクられた!」と思った。
落選させるだけでなく、俺の作品をパクりやがった。
そっちがその気ならやってやる!と。
完全な妄想である。
本書によるとパクったと主張する内容は二つあるとのことだが、
一つは、ある作品の中で描かれた「学校に垂れ幕が下がっている」ことだった。
公判でも京アニがパクったと主張しているので、
青葉被告の中では相当重要なことだったのだろう。
どんなレベルの小説だったのかはわからない。
でも、自分が渾身の力で書いた小説が否定され、
心の支えが折れてしまったらしい。
一度の失敗で。
普通に考えればたった一度の失敗じゃないか。
それでもある人にとっては世界が閉じてしまって、
狂暴性を外に向かって放ってしまう。
巻き込まれた人は狂気の近くにいただけで、何も罪がない。
本書を読んで、二つのブログを書きながら暗い気持ちになってしまっている。
犠牲者、遺族の苦しみにふれた重みと、
事件から次へ活かす教訓めいたものが見いだせない自分の無力さがある。
本書の第3部に
「社会に突きつけられた課題」
があり、有識者数名の考えが並んでいる。
「貧困」「ソーシャルキャピタル」「社会のデオドラント化」など。
皆さんが書いているのは、
誰かの社会的孤立を防ごう
と言うこと。
でも、これ簡単にできないよ。
そもそも誰かが社会的孤立になっていることなんてわからない。
わかったとして、どうできるの?
見ず知らずの人なら近づかないし、
友人だったら声をかけるくらいはできるけど、
自分の生活もあるのに深く立ち入るか?
深く立ち入っても多くの孤立した人は
伸ばした手を振り払ってしまう。
(本書にも保護司をしている大友秀逸さんが同様のことを書いている)
SNSでも違う意見を持つ人同士が罵り合っている場面を見る。
これも自分を否定されたと孤立に陥る一因になっているかもしれない。
コミュニケーションをとって、社会的孤立を防ごう。
スローガンを掲げることは易い。でも行うは難し。
自分の手の届く範囲で、できることをやっていくしかない。
ここまで読んで頂いたのに、
悶々とした内容で申し訳ないです。
答えはすぐには見つかりそうもありません。



