いままで非難する内容ばかりだったので、それでは希望はないのか? という問題に入るよ。
神ってなんだろう?
その答は老子のタオがそれに近いと思う。
道教は太上老君なんて崇めているからちがう。泰山に道場があったり、巡礼したり。峨眉山も聖地だったり。まあ聖地はパワースポットだからいいとして、関羽(かんう)を祀った寺なんてのは論外だね。北斗七星信仰も老子の教えとちがう。
『老子道徳経』っていう本を書いた人だ。「経」がつくからって、お経じゃないよ。
表の教えが「経」(=顕)、裏の教え、つまりオカルトが「緯」(=密)。
いいかい。「道徳経」だよ。
「タオというは真のタオにあらず」っていってるから、ことばで表せない、宗教にならないものなんだ。
だって宗教って、全部ことばや記号やシンボルで表すだろ。
川みたいに流れてて、人は水滴みたいなものだ、っていうんだ。
アイオーン(「一なるもの」)はタオだと思う。
「心がまっすぐな人は、心が曲がっているようにみえる。それはみんなの心が曲がって
いるからだ」
言いえて妙だね。
「人々が仁義(道徳、規律、倫理)というのは、本来のあり方が失われたから、いうよ
うになったのだ」
「役に立つ木は、伐り倒される。役に立たない木はいつまでも伐られることはない」
有能な人ほど失脚しやすい。
「この世界は時のリズムで生きている。タオに至るには雨のリズムを味わい、晴れのリ
ズムを悦ぶ。木の葉と同じように」
「花があんなに美しいと感じるのはなぜかわかるか? それはそれが風と語らい、他の
花々と語らい、すべてと交感し合っているからだ。そして至福に満たされているからだ
」
「幼子が無邪気で悦びに満ちているのはなぜか? それは大人みたいな計らいがなく、
自然万物と同じで柔らかく流動的だからだ」
いっぱい心に焼き付いたことばがあるけど、一言でいうと脱洗脳、脱マトリックスを
唱えているんだ。
どうみても宗教じゃない。
観念的な思想でも、道徳観、規律でもない。
本質的な生き方なんだ。
神様は、宗教とは結びつかないんだ! それが真の神だ。
奥義がある。それはタオとは「突く」という意味でセックスのことなんだ。(「緯」)
檮(タオ)と書く。
「あなたがたがいうセックスは一時のものだけで、不変なセックスを表すすべはない」
という意味になる。
ことばが二重の意味を持ってるんだ。
「人が宇宙と一体化するとき、至福にいたる」
これが尽きることなくおこる。これを「常道」(ツェンタオ)と呼んだ。
「タオを情欲の対象としか思わない人は、自分が描いた粗野な世界に縛られ続けるだけだ。あなたがいうタオは、根源のみえないタオのほんの一部に過ぎない。
その奥にある何倍もの深遠な世界をどうして知ろうとしないのか?」
「この奥深い働きの最も奥の働きが万物を生み出すのだ」
=「この宇宙の本質は究極のエクスタシーだ」
「人は万物一体感というが、これは『感』ではない。万物とタオ(セックス)が始まるとき、万物との間に交流がおこる。この交流はことばで表せない至福をともなう。それは観念的な『感』ではなく、エネルギーの流動であり、共働の変動が生じている」
「エクスタシーに達している女性をみてごらん。彼女は体全体で至福に満たされ、無にいて、一体感に包まれる。大いなる愛の中にいる。無心の中で大いなる流動がおきている。真にタオに至るとき、これが常になる」(「常道」)
「人は性を人の一部だと思っている。これは大きなまちがいだ。人が性の一部なのだ」
「性は生命以前からあるものだ。
性をきわめれば宇宙がわかる。宇宙の本質は性なのだから」
本のタイトルに「道徳」って入ってたよね。
「徳」とは女性器を意味する。
「道」と「徳」で男性器と女性器を意味する。
愛し合う男女の交接のこと。快楽主義とはちがうからね。ましてや性魔術なんかじゃないよ!!
「道徳」って、本来こういう意味なんだよ。
ここまで読んで、ナンセンスだ、と思った人は、完全にマトリックスに囚われてるね!
重症だ。
重症な人に何をいってもムダだ。
タオについて解説すると、それだけで講座が開けるくらいだから、この辺でやめとく。