序論

 読書に関しては、多くの人が良いものだと考えています。その証左に、子どもには読書感想文が課され、大人に関しても「年収〇〇以上の人は年間に〇冊の読書をしている!」とネットや雑誌で話題になります。もちろん、新しい知識を勉強すること、新しい情報を得ることは人間の成長にとって不可欠なことであり、その代表が古来から読書でした。しかし、考えてみれば、情報だけでは何の役にも立ちません。情報は、考えるための材料として必要なのであり、情報単体では何の役にも立たないのです。「情報は、考えるための材料である」という前提に立った場合、読書の有害性も見えてきます。

 

本論

 読書をすれば、圧倒的なボリュームで新しい情報を得ることができます。そのボリュームは、僕たちに考える余裕を与えない程です。脳が沢山の情報に晒される中で、脳の働きのベクトルが、アウトプットではなくインプットの方ばかりを向くようになります。インプット偏重型の脳になるのです。批判的読書の必要性が論じられるのも、下手な読書が思考力を奪うからです。しかし、批判的な読書は一定の訓練がなされた人、既にその分野に関する知識を一定有している人だからできるのであり、僕たちのような一般的な読者は、ただ本文を理解するだけでいっぱいいっぱいなのです。そして、読書時間は、考える時間ではなく、単なる知識の詰め込み時間に成り下がってしまうのです。さらに残念なことに、圧倒的なボリュームで押し寄せてきた情報のなかで、頭の中に残る情報はほんのわずかで、残った情報は「この本は難しい」ということだけ、なんてこともあります。

 また、大量の読書の習慣は僕たちを「情報慣れ」させてしまいます。つまり、ちょっとやそっとの刺激では、その情報を記憶できなくなってしまうと考えています。僕たちの脳は、繰り返し刺激を受けると「この情報は大切だ」と認識して、記憶するようにできています。しかし、普段から脳が新しい情報の刺激に晒されていると、脳は次第に「これくらいの刺激では覚えるに値しないな」と判断するようになってしまうように思います。結果、物覚えが悪くなってしまうと考えられます。情報は、考えるための材料であるわけですから、その情報が覚えられなくなることは、思考力を奪うことに繋がります。僕たちが、思考するために操れる情報は、読書によって得られる複雑で高尚な知識ではなく、もっと卑近で実生活で体得してく情報です。読書によって不必要な情報を沢山頭に詰め込んだ結果、考えるために、使える情報が入らないようでは思考力は奪われます。

 また、読書の習慣が身につくと、何か実生活で問題に直面した時に、自分で考えるよりも先に本を読むようになります。もちろん、本を読めば今まで考えもしなかった視点からの解決策を見いだせるかも知れません。しかし、この条状況における読書とは「自分ではなく、他人の頭で考えてもらうこと」と同義です。実生活で直面する問題は、本に答えの書いてある問題ばかりではありません。誰と結婚するべきか、会社でどの地位まで出世しようか、などということは、本に答えの書いてある問題ではなく、また答えのある問題でもありません。結局は自分の頭で考えて、覚悟を決めて選択するしかない問題です。本のなかにばかり答えを探すようになれば、いつのまにか思考力を奪われ、自分の問題を自分で解決することもできなくなってしまうのではないでしょうか。

 

結論

 新しい情報を得るために、読書は非常に有効な手段です。しかし、「情報は考えるための材料である」という点を忘れてはいけないと思います。ですので、本は読めば読むほど良いわけではなく、自分が考えるための材料として操れるボリュームであるべきだと思います。本を読み、沢山の情報を得たときは、本を読むのに費やした時間以上に多くの時間をかけて、ゆっくりと情報を咀嚼し、自分が予めもっていた情報と関連付ける努力が必要ではないでしょうか。