2026年2月27日(金)13時~14時30分、陵墓関係17学協会による佐保山南陵(聖武天皇陵)・同東陵(光明皇后陵)(ともに奈良市)の立入り観察が実施された。
今回の陵墓は、古墳時代に属する従来の前方後円墳とは異なって、奈良時代のものであり、さらに戦国時代の松永久秀による多聞城の築城に取り込まれて、かなり改変が加えられたと推定されている。また、宮内庁の内規で、古代高塚式墳墓は墳丘の第一段目テラスまでの立入りが許可されているのに対し、奈良時代の陵墓である佐保山南陵は、墳丘を囲む管理上の外構柵より内側は立入りができない「兆域」として設定されている。そのため、同陵は立入り観察要望の第1次リスト(2005年提出)に含まれてきたものの、これまでなかなか立入り観察が許可されず、今回も果たしてどこまで観察できるのか、期待と不安を抱えてのものだった。
陵墓に隣接する畝傍陵墓監区奈良部事務所前に着くと、意外に多くの報道関係者が詰めかけており、空には報道用ヘリコプターも飛んでいた。奈良時代の実在する天皇の陵墓だからであろうか。定刻となり、清喜裕二陵墓調査官から説明を受けて代表参拝を済ませ、指定された見学ルートへ踏み出した。
簡単に聖武天皇・光明皇后の陵墓に触れておきたい。『続日本紀』によれば、聖武太上天皇は天平勝宝8年(756)5月乙卯(2日)に亡くなり、壬申(19日)に「奉葬太上天皇於佐保山陵」という。佐保の地は、元正太上天皇や文武夫人(藤原宮子)など、奈良時代の天皇・皇后ら皇族の葬地となっていた。光明皇后も天平宝字4年(760)6月乙丑(7日)に死去して、7月癸卯(28日)に「葬仁正皇太后於大和国添上郡佐保山」とある。ただし、奈良時代の陵墓がどのような形態であったかはよくわかっていない。幕末の『大和国帝陵図』という山陵絵図には、現在宮内庁が管理する「佐保山南陵」の安政2年(1855)頃における様子が描かれており、聖武陵を管理するために東大寺が創建したという眉間寺の背後に、柴垣に囲まれた山陵が存在する。ただし、その山陵には横穴式石室が描かれていて、明らかに古墳時代後期の古墳である。周辺には古墳時代後期から終末期の群集墳が存在することから、同じ地域に奈良時代の陵墓が次々と設けられたものと考えられている。さらに、戦国時代に改変が加えられたとなると、現状の詳細な観察こそが本来の聖武陵に迫る基礎作業として重要である。
宮内庁から提供された立入りルート図を参照しながら、拝所の横より時計回りに、南陵の西側にある外構柵の外側を歩き始めた。いきなり急な上りとなる(写真1)。時折、外溝柵の合間から中を覗いてみるが、鬱蒼とした木々と急峻な崖が見えるだけで、聖武陵がどこにあるのかはわからなかった。やがて眉間寺が建っていたという平場が見えてきたが、現状では何も無い(写真2)。
【写真1】 南陵西側の外構柵沿いに急な斜面を上る。
【写真2】 外構柵の合間から見えた、眉間寺跡とされる平場。
この平場から斜面が北へ伸びており、その上に聖武陵とされている構造物があるのであろう。外構柵はコンクリート製であるが、ヒビが入っていたり破損したりしている(写真3)。
【写真3】 ヒビが入ったり、途中が欠損している外構柵。
やがて、北辺部へ到達して、東へ90度折れて下り坂となった(写真4)。下りきったところが、東陵(光明皇后陵)との境界になっている地点である(写真5)。ここから外構柵の中へ入る。調査官の説明によれば、それぞれの陵墓は独立していて、境界線上は「兆域」となっていないので立入りが許可できるという。この境界線は、多聞城の掘割になっているそうだ。
【写真4】 南陵と東陵の境界地点へ向かって坂を下りる。
【写真5】 東陵(光明陵、左側)と南陵(聖武陵、右側)の境界地点(北から南を望む)。
外構柵の中へ入る前に、いったん東陵を上る(写真6)。東陵の北側には平場が広がり、その向こうには民家が建ち並んで、奈良市立若草中学校の敷地につながっている(写真7)。
【写真6】 外構柵沿いに東陵の北側を上る。
【写真7】 東陵の北側に広がる平場。奥に見えるのが若草中学校。
外構柵から東陵の中を覗くと、奥の方にマウンドらしきものが確認できた(写真8)。これが光明皇后陵とされているものなのだろうか?
【写真8】 東陵のなかを望遠撮影。奥に見えるマウンドが光明陵か。
東陵の折り返し地点から、南陵との境界点へ戻り、いよいよ外構柵の中へと入った。両側に南陵と東陵の斜面がせり上がるV字谷のようになったところに隘路が伸び(写真9)、所々に瓦や五輪塔の空輪や水輪が転がっていた(写真10・11)。眉間寺の名残であろうか。ここで詳細な解説をしていただいたのが、城郭研究の専門家である永惠裕和氏(兵庫県立考古博物館)である。
【写真9】 南陵(右側)と東陵(左側)の間に伸びる隘路(北から南を望む)。このV字谷は、多聞城の掘割でもある。
【写真10】 V字谷に残る瓦。
【写真11】 V字谷に残る五輪塔の風輪と空輪。
V字谷は多聞城の掘割であるが(写真9)、その両側の斜面上部には、張り出した部分があちこちに観察でき、それらは多聞城の廓や土塁であるという(写真12~14)。東陵だけでなく、南陵にも縄張りが続いていて、多聞城の一体感が読み取れ、南陵も取り込まれていることがわかり、多聞城築城により、原地形が改変されたことは明らかである。そうであるならば、宮内庁が治定している、現在の聖武陵そのものを観察しない限り、奈良時代の聖武陵の手掛かりは得られない。残念ながら、今回の立入り調査には大きな限界がある。
【写真12】 東陵側の張り出し。
【写真13】 南陵側の土塁状遺構。
【写真14】 南陵(左側)を南から北に望む。奥に写真13の土塁状遺構の延長が見え、手前には五輪塔の水輪も確認できる。
掘割の隘路を南に抜けて陵外に出た(写真15)。約1時間半の立入り観察であった。待ち受けていた報道陣に対し、代表が取材に応じた。15時から奈良女子大学の教室を借りて、事後検討会と陵墓関係17学協会の2025年度第3回全体会議が行われた。
【写真15】 隘路の南側から陵外に出る。
聖武陵に関する手掛かりは、『続日本紀』の聖武死去記事、『延喜式』の陵墓歴名記載項目、『東大寺要録』などの東大寺関係の記録類、幕末の諸史料であるが、これらを分析しても不分明なことが多い。佐保丘陵に古墳時代後期から終末期に造営された群集墳地域に、奈良時代の諸天皇・皇族の陵墓が造営されたと推定されるが、その形態はよくわかっていない。東大寺は墓守を置いたり眉間寺を建てて聖武陵の管理を行ったが、それも鎌倉時代までらしい。戦国時代には多聞城の築城で聖武陵周辺は改変された。幕末・明治期の修陵で治定されたものが現在、宮内庁が管理する「佐保山南陵(聖武陵)」であるが、実体は古墳時代後期から終末期の古墳である可能性が高い。はたして真の「聖武陵」はどこに存在するのか?
5世紀の巨大な前方後円墳は、被葬者が誰であるのか定まらないものが多く、奈良時代の天皇・皇族は、葬られた場所が記録に残されていても陵墓の形態が不明である。今回の立入り調査を第一歩として、少なくとも治定されている現「佐保山南陵」を真近で観察することを要望する必要がある。(文責:丸山理)
























