2025年3月7日(金)12時30分~15時、陵墓関係17学協会による大山古墳(大阪府堺市)の立入り観察が実施された。
立入り観察に先立ち、10時から、堺市市役所本館5階の記者クラブ横の会議室にて記者会見がおこなわれ、15学協会連名による「「第17回陵墓立入り観察」に際しての意見表明」がなされた。会見に参加したのは、日本考古学協会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学研究会、中国四国前方後円墳研究会、奈良歴史研究会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会の9学協会と、産経新聞社(幹事社)、朝日新聞社、NHK、共同通信社、毎日新聞社、読売新聞社などであった。15学協会側から、陵墓の「限定公開」「立入り観察」に関するこれまでの経緯、および本日の大山古墳立入り観察の意義が説明されるとともに、将来に向けて陵墓も文化財として公開の拡充が図られることを目指している旨が表明された。記者側からは、「陵墓の立入りは、陵墓関係17学協会の構成団体だけでなく、他の個別学会でも申請できるのか」「3次にわたる立入り観察希望リストに挙げられた陵墓は、何を基準にしているのか」「墳丘に立入ることの意味とは何か」「何を重点的に観察するのか」「今回の大山古墳立入り観察は、何らかの象徴的意味があるのか」「今後の活動はどのようなものか」といった質問が出された(回答は省略)。
その後、12時30分、大山古墳前方部拝所横の古市陵墓監区百舌鳥部事務所前に集合し、宮内庁の清喜裕二陵墓調査官による留意事項と日程の説明、および学協会代表による拝所参拝ののち、上空に朝日新聞社の取材ヘリが飛ぶなか、報道陣に見送られながら拝所横から域内に入った。陵墓監区職員からライフジャケットを受け取り、幅約70メートルという第1濠を渡船した(写真1・2)。なおこの渡船作業は、2024年3月1日の誉田御廟山古墳立入り観察でも経験済みである(丸山理「誉田御廟山古墳立ち入り観察報告」『奈良歴史研究』95、2024年)。

写真1 宮内庁の用意したボートにて第1濠を渡る

写真2 ボートから前方部に上がる
急峻な墳丘第1斜面を、宮内庁陵墓課が設置してくれた階段で昇り、平坦な第1テラスに立つ(写真3)。足元の感触は、厚く堆積した腐葉土でフワッとしている。何もかもがデカい、というのが率直な感想である。テラスの平坦面も幅広いし、足元に転がる葺石も人頭大のものがゴロゴロしている。ここから時計回りに墳丘を一周する。

写真3 第1テラス
前方部観察のポイントは、測量図からも一見してわかることだが、等高線が奇麗すぎることである。墳丘全体に崩落が見られ(地震説と地すべり説がある)、等高線が乱れているのに前方部正面は崩落が見られず、直線的な等高線となっている。その理由が現場に立って分かった。
葺石を積み直したと思われる高さ1メートル弱の石積みが諸所に見え、5段にわたって確認できた箇所もあった(写真4・5)。この石積み列が、奇麗な直線として航空レーザー測量図(2012年)に表れているのだ。このことは、徳田誠志氏(前陵墓調査官)も指摘されているように(2018年、飛鳥史学文学講座)、1872(明治5)年に当時の堺県が前方部の埋葬施設を調査してから、1886(明治19)年に宮内省が管理するようになるまでの間に、前方部正面だけが修復されたと考えられている。清喜調査官によれば、残念ながらこの修復に関する資料は、宮内庁には残されていないという。文久の修陵だけでなく、後世の破壊や修復が幾重にも重なり、古墳築造当初の復元はなかなか一筋縄ではいかない。

写真4 前方部の石積み

写真5 前方部の石積み
前方部西端コーナーを回りこむと、1段目のテラスから2段目のテラスへ急勾配を上った。しばらくは2段目テラスを進んだので、墳丘の第3斜面を見ることができたが、墳頂部は木々の彼方で確認できない。造り出し部分は、かなり崩れていてデコボコとしていた。それでも濠際には、築造当初と思われる石列が見えていた(写真6)。

写真6 濠際の石列
ここまでで全周の4分の1ほどの距離で、時間的には約1時間が経過した。後円部へ入る。地面が固く感じられ、埴輪片があちこちに見えた(写真7)。腐葉土の堆積が薄いのかもしれない。

写真7 後円部の埴輪片
後円部を歩いていると、植生が前方部とは違ってきたことに気付く。前方部はシラカシが多かったが、後円部はナラやモチノキ、竹林まで出て来た。大山古墳は、明治時代に松・杉・檜・樫・樟などの植林がかなりの本数に及び、松葉好太郎の『陵墓誌』(1925年)に詳細な記載があるという。後に明治神宮の森を造成する参考にもなったと言われている。
許可をもらって、後円部第1斜面を降りて濠際へ行く。そこには、江戸時代の渡船の係留石が残っていた(写真8・9)。現在は、前方部正面に拝所が設定されているが、江戸時代では後円部が古墳の正面扱いされていたようで、誉田御廟山古墳も後円部濠に橋が架けられていて、そこから墳頂部に立ち入っていたことが『河内名所図会』に描かれている(前掲「誉田御廟山古墳立ち入り観察報告」)。行けども行けども、森の中を彷徨う感じに襲われる。14時40分、東側造り出しを通過した。水際から5世紀の須恵器甕が出土しているとのことで、これが大山古墳築造時期の根拠の一つとなっている(甕は、堺市博物館に常設展示されている)。前方部東端コーナーを回って出発点に着いたのが15時だった。

写真8 江戸時代の渡船係留石

写真9 江戸時代の渡船係留石
写真を撮ることは許されているが、測量はできない。こんな巨大な土木事業を5世紀の人々が営んだ技術は、計り知れないものがある。古墳研究における陵墓群の占める位置は大きく、研究対象としての公開は必須である。
2005年に立入り観察の第1次リストを宮内庁に提出して、その中に含まれていた大山古墳の立入りが、20年を経てようやく実現した。学協会の粘り強い努力と、宮内庁側の対応の賜物である。ある考古学研究者は、懐に故森浩一氏の文庫本を忍ばせていた。まだまだ第一歩であり、引き続き国民共有の文化財として、墳墓であることの制約も含めて公開されることを求めていかなければならない。
17時から三国ヶ丘駅近くの貸会議室にて、事後検討会をおこなった。最大の古墳として、また陵墓に治定されていても他の前方後円墳と変わりなく、客観的な古墳研究の対象であること、文久の修陵以後、明治時代になっても改変が加えられていること、より詳細な観察が繰り返し行われることで、築造当初の姿の復元が可能になるであろうことなどが議論された。一方で、濠水による墳丘裾の浸食に対する保全整備工事が日程にあがってくることが予測されている。この保全整備工事も、「後世の改変」の一つである。(文責 丸山理)