『天文学の歴史』第1回 古代ギリシャ~イスラム | 奈良の鹿たち

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『天文学の歴史』

第1回

「古代ギリシャ~イスラム」

 

⦿エウドクソス(Eudoxos、紀元前4世紀 古代ギリシャ)

エウドクソスは、地球を中心とする同心天球の組合せで,太陽,月,惑星の運動を,初めて系統的に説明する理論をつくりだし,その後の幾何学的天文学の発展に基礎を与えました。地球球体説を採用し、また地球を中心に他の天体がその周りを回る天動説の立場に立った。彼によると、他の星々は各々個別の透明な球に貼り付いており、その球は地球を中心に速さをかえることなく回転しつづける(同心球モデル)。これによって、惑星の逆行を大雑把に説明することに成功したが、定量的な予測には至らなかった。彼の説明はアリストテレスの宇宙論に取り入れられました。

⦿アリスタルコス(Aristarchus、紀元前310年~紀元前230年頃 古代ギリシャ)

アリスタルコスの説が優れているのは、太陽を中心に据え、惑星の配置をはっきりと完全に示したことです。「天球の中心は、地球ではなく不動の太陽を中心に地球が自転しつつ回転している」というピタゴラス学派の太陽中心説(地動説)を観測にもとづいて推測した最初の天文学者でした。(このため彼は「古代のコペルニクス」と呼ばれることもある)。地球から太陽、そして月までの相対的な距離と、それぞれの大きさを概算する方法を編みだしました。さらに実際の観測を行って、地球から月及び太陽までの距離の比を:1:18~20、月の大きさが地球の約3分の1,太陽の大きさを地球の約7倍と推定したのです。これらの数値は、現実の値とはかなりかけはなれているものの(現在では地球から月及び太陽までの距離の比は1:389)、その論理は間違っていませんでした。

しかし、ただひとつピタゴラス学派の地動説は、後々その根拠となる証拠が見つからなかったために、広く受け入れられることはなく、アリストテレスやプトレマイオスの天動説が支配的でした。

しかし、約2000年後にコペルニクスが太陽中心説(地動説)を唱え地動説が広まったが、コペルニクスはアリスタルコスの存在を知らなかったという。

⦿アリストテレス(Aristotelēs、前384年~前322年 古代ギリシャ)

宇宙を大きく2つに分けて考え、月より地球側の「月下界」と月より遠くの「天上界」と考えました。「月下界」では、「土・水・空気・火」の四元素が相互に転化して生成・変化・消滅を繰り返すことが可能な世界であるとしました。そして「天上界」では第五元素「アイテール」(エーテル)で満たされた変化や上下の無い単一な構成でできているとしました。数学的にすぎなかったエウドクソスのモデルに、自然学的に「天球」上を動く惑星のイメージを加え、地球を中心とした同心円状に太陽や月や惑星が円運動する地球中心説を確立させました。そして最上位なる「天上層」には「不動の動者」である世界全体に関わる「第一動者(神)」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)が存在するとしました。

この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれ、1500年ごろまでヨーロッパの人々の宇宙観として定着することになるのです。

 

⦿プトレマイオス(Ptolemaeus, 83年頃~168年頃 古代ギリシャ )

プトレマイオスは決して迷信や宗教的な考えから天動説を唱えたのではなく、当時知られていた知見に基づき、科学的・合理的な解釈の帰結として天動説を唱えました。

2世紀ごろ、地球が宇宙の中心にあるという前提のもとに、5つの惑星と太陽、月の合計7つの天体が、地球のまわりを回ることによって、その運動を説明しました。

また、この時の天体の軌道は、当時の完全なる幾何学を求めた結果、真円であるとされています。太陽の季節によって異なる速さや四季のズレを、太陽の円運動の中心を地球ではなく少し離れたところに設定して説明をしました。

見かけ上の惑星の不規則な運動、見かけ上戻ってしまうような「逆行運動」の存在についても理論的に見事な解決案を示しました。惑星の軌道上にさらに半径の小さな円を描き、惑星はこの上を円運動しながら、その小さな円「周転円」そのものが地球のまわりを回るという二重構造の軌道を導入する修正が加えられました。恒星の運行については、逆行も含めて現在の軌道計算と大差のない見事なものでした。さらに地球の天球上での位置を少し動かすことで、四季のそれぞれの長さの違いを説明しました。その著書「アル・マジスティ(アルマゲスト)」の天動説+周転円の理論は、その後、1000年もの長い間にわたって修正を加えながら、人々の宇宙観を支配することになりました。

「Wikipedia」より

 

  

⦿ナスィールッディーン・トゥースィー(1201年~1274年 イラン)

天文学は、プトレマイオスなどの古代ギリシアから直接ヨーロッパのコペルニクスに行ったのではなく、13世紀ごろ、古代ギリシアから受継いだイスラム世界で展開しました。

その代表がトゥースィーです。イランで生まれたペルシア人で、「学識者トゥースィー」、「人類の師」などの尊称で呼ばれて来ました。プトレマイオスの『アルマゲドン』の影響を受けながら、1272年に惑星の位置を計算し、恒星の名を記した天文表『イルハン天文表』を作成しました。2つの円運動から直線状の動きを得る「トゥースィーの対円 (トゥースィー・カップルTusi-couple)」 と呼ばれる惑星モデルを考え、古代ギリシアのプトレマイオスの惑星運行モデル(『アルマゲスト』)の難点の一つであったエカントを設定しなくても周転円の説明をすることに成功しました。地動説が現れるまで、トゥースィーの著書『アルマゲストの解説』(1247年)の宇宙体系が最も進んでいました。

トゥースィーの対円は、小さな円が小さな円の直径の2倍の大きな円の内側で回転する数学的な装置です。円を回転させると、小さい方の円の円周上の点が大きい方の円の直径に沿って線形運動で前後に振動します。

トゥースィーの対円は、コペルニクスが数学的天文学の再定式化に使用したため、彼が何らかの方法でこのアイデアに気付いたといわれていますが確証はありません。

トゥースィーの対円 - Wikipedia

 

 

 

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次回は 第2回「コペルニクス」

 

 

(担当P)

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