このところ、鎌倉殿にすっかり興奮モードでしたが(興奮しすぎて、政子の演説中に大江殿の目が開いたという大興奮の話を書き忘れてしまった)、
ちょっと落ち着いて、書きかけていた11月22日の奈良の話をしたいと思います
11月22日、大学院の学友二人(シルバー世代)と一緒に、奈良の忍辱山円成寺、般若寺、奈良豆比古神社を訪れました
なにしろ、学究心の非常に強い方々と一緒なので、あちこちで議論が湧きおこり、時々私はついていけなくなりましたが、とても面白い道行となりました
今回の記事では、忍辱山(にんにくせん)円成寺について、つれづれなるままに書いていこうと思います
円成寺は紅葉の鮮やかさと、運慶作の大日如来像で有名な名刹です
(が、この記事では大日如来像まで辿り着きませんでした)
名刹とはいえ、このお寺、アクセスが悪い!
車がなければ、バス🚌に頼るしかない(中には「歩く」という猛者もいらっしゃるかもしれませんが)
頼りのバスの運行本数もきわめて少ない…どーにかして!
と、文句を言いながら、
近鉄奈良駅バス停 11時48分発柳生行きに乗りました
下りたバス停は「忍辱山」
バス停からすぐのところに、東門があります
東門をくぐり、読めない歌碑の横を通ります
(だいたいこの手の石碑は読めないんだわ)
歌碑を過ぎると、左手には池を擁する浄土式庭園、右手には少し高いところに楼門が見えてきます
ここで、
ん?浄土式庭園に楼門?オカシイでしょ?
ということになりました
この疑問を胸に温めながら、話を進めます
円成寺の浄土式庭園と(楼)門
↓現在の円成寺の伽藍配置(お寺のパンフ、緑が濃くてわりと見にくい)
上の伽藍配置図を参考にしながら進めます
「円城寺庭園」と書かれたのがここ↓
静かな水たたえた池を擁する浄土式庭園です
この池の北側、一段高いところに楼門があります(室町時代、重要文化財)
ここで、みんなで歩みを止め、
「ん?浄土式庭園に楼門?オカシイでしょ?」
となったわけです
オカシイ理由は、
浄土式庭園であれば、本堂(阿弥陀堂)と池の間に門があるとは考えられないからです
ところが、円成寺には、立派な楼門がある
↓池の対岸から本堂方向をみると、池と本堂(阿弥陀堂、修復中で三角の屋根をかぶる)との間に、楼門があるのが見えます
ここでモンダイとしているのは、「楼門」の有無でなく、「門」そのものの有無です
「楼門」は二階建ての豪華な門ですが、モンダイなのは浄土式庭園に「門」があるかどうかということ
そこで浄土式庭園の典型例である、平等院鳳凰堂、浄瑠璃寺、平泉の毛越寺を見てみると、いずれもお堂と池の間に門などない
平等院鳳凰堂 池との間に門などない
浄瑠璃寺九体阿弥陀堂…やっぱり門なんてない
毛越寺の伽藍図…こちら、発掘で伽藍配置が明らかになっていますが、門なんてありません
ちなみに、浄土式庭園の始まりとされる
藤原道長の法成寺(現存せず)も、建物と池の間に門なんてないよね↓
拡大↓
こういった例でわかったように、
浄土式庭園では、本堂の前に池が広がっており、門なんてありません
なのに、なんで円成寺の庭園には、阿弥陀堂と池の間に楼門があるのだ?
というわけで、初っ端から話が進まず、その場で下した判断は、
「楼門は後から造られたものだろう」というものになりました
現存の門自体も室町時代のものですし、創建当初には存在しなかっただろうと仮の判断をしました
そこで、この判断の妥当性を探るため、このブログでは円成寺の由来を辿ろうと思います
↓お寺の案内板…大日如来が国宝だということを見落としそうな順番(「運慶作」とか「国宝」とか、大きな赤字で見せびらかせばいいのに…)
円成寺の由来
円成寺は、天平勝宝8年(756)、聖武・孝謙両天皇の勅願により、唐僧虚瀧(ころう)を開基として創建されたといわれるそうです
しかし、実際の開創は万寿3年(1026)、命禅が十一面観音像を祀る堂を建てたことに始まると考えられているようです
この時制作された十一面観音像は、(軽く調べた限りでは)情報が途絶えています
その後、12世紀初め天永3年(1112)、迎接上人経源が阿弥陀像(現存像)を本尊として、浄土教を広めました
この時の本尊が、現在、本堂(阿弥陀堂)に安置される阿弥陀如来坐像です
(阿弥陀堂自体は文正元年(1466)の再建で、現在修復中…本尊だけは見ることが出来ます)
仁平3年(1153)には、仁和寺の真言僧寛遍が入山し、真言宗忍辱山流の本山となりました
お寺のパンフには、この寛遍が「浄土式と舟遊式を兼備した寝殿造系庭園」を築いたとあります
真言僧が浄土式庭園?と、ここ、引っかかります
そこで、手元の本(大橋一章・森野勝『大和路のみ仏たち』297頁を見ると、
寛遍入山のころから鎌倉時代にかけて伽藍が整備された
と書かれていますので、浄土式庭園だけでなく、伽藍が整備され、その一環として楼門も作られた可能性が考えられます
つまり、
1112 浄土教の僧経源、阿弥陀如来像安置
1153以降 真言僧寛遍により浄土式庭園造園
→引き続き、伽藍も整備
という流れで、寛遍は(真言僧なのに)浄土教の阿弥陀に引っ張られて浄土式庭園を造り、その後伽藍整備を行う時に楼門を造った…という流れになると思われます(知らんけど)
その後、文正元年(1466)に応仁の兵火で主要伽藍は焼失したため、楼門も焼失したと考えられます
現在の楼門は、応仁2年(1468)の「再建」です
で、今この記事を書きながら、気になりはじめたのですが、
阿弥陀堂の隣にある、春日堂・白山堂の存在(どちらも1228年、国宝)と楼門に関係性は考えられないでしょうか?
そもそも「楼門」は神社の入り口に設置されることが多く、春日堂・白山堂は1228年に奈良春日大社の旧社殿が寄進されたものです
ということは、春日大社からありがたい寄進があった際に楼門が造られたという可能性も考えられるのではと思えてきました
もうわからん…
たぶん私を含め、殆ど誰も気にしない話題について、しつこく掻き回しただけの話になってしまいましたが、
気を落とさず、次は
「やる気があまり伝わってこない(←こら)」本尊阿弥陀如来像について取り上げます
平安時代末期の定印阿弥陀如来坐像
やる気があまり伝わらない阿弥陀如来像(怒られるよ)はこちらです
↓円成寺阿弥陀如来坐像(重文、天永3年(1112)、平安時代末期)
顔のアップ
「ぐへー、今日もくたびれたー」とか言ってそう(おい)
この像は、平安時代末期に造られた「定印を結ぶ定朝様の阿弥陀如来像」です
ここでまず、お寺のパンフの説明の間違いについて、大変僭越ながら指摘したいと思います
↓お寺のパンフ
パンフでは、この阿弥陀像が「上品上生の定印を結んだ定朝様式藤原和様」の像であると書かれていますが、このうち「上品上生」の部分は間違いです
よく行われていますが、阿弥陀の印相を九品(上品上生から下品下生まで)に結び付けて説明するのは基本的に間違いで
江戸時代以降の阿弥陀についてのみ有効です
↓この説明は間違い⚠️
この説明、わかりやすくて、とても魅力的ですよね
そのため、どことは言わぬがいわゆる古刹で説明に使われていたり、仏像の本でもまだよくみかけます
でも、間違いです⚠️
間違えた情報を広めないように、気を付けてほしいです
(つい先日も、奈良の本屋で手にした本に間違った図解があり、ひとりフンガイしました)
阿弥陀の印相の解釈の間違いが蔓延していることについて、私がこんなブログで叫ぶより、
美術史の偉い学者さんたちになんとかしてほしいものだとつくづく思います
参考↓
至文堂『日本の美術6』阿弥陀如来像(光森正士)90頁
「阿弥陀仏の印相は、普通九種類に分けて説かれることが多い。すなわち両手の位置ー臍前にあるか、胸前にあるか、右手が胸前、左手が垂下されるなど―によって、上品・中品・下品の三品に分かち、またその両手の指が、大指(第一指)と捻ずる他指の種類―頭指(第二指)、中指(第三指)、無名指(第四指)-によって上生・中生・下生の三生に分かち、これらの各品・各生の組み合わせによって九種とし、これを阿弥陀仏の九品印と称している。
この九品印の出典はあたかも観経九品の経説にあるかのようであるが、観経にはかかる所説は勿論ない。唐僧善導があらわしたという観経曼荼羅の下縁の九品往生図でもかかる印相を明らかに見ることはできない。覚禅の説いた恵運将来の九品曼荼羅の諸尊とも合致しない。この九品印を最も端的に図示したのは元禄時代に開版された『仏像図彙』がその最初であり、大した根拠もなく、意味のない説と思うが、今日かなり多くの人々によってその名称と印相とが抵抗なく安易に用いられている。阿弥陀の印相を見て、この像の造立発願者は何品何生の往生を願って造像したというような論文・解説があるが、これは成立しがたいと思われる。現存するわが国の阿弥陀像を通覧すると、その印相の多種多様さは驚くべきもので、到底九品印などでかたのつく問題ではない。九品印と称するもののうち現存しないものがあり、またこれ以外の印相は実に多い。」
…ということで
円成寺の阿弥陀像が結ぶ印相は、(上品上生の印などという位置づけではなく)「(阿)弥陀の定印」です
阿弥陀の定印といっても、バリエーションは様々
↓(『日本の美術6』)
阿弥陀如来像の印相については、定印の他にも説法印、来迎印など時代的な流れがありますが、細かいことは置いておくとして、
天喜元年(1053)の平等院鳳凰堂阿弥陀如来像以来、平安時代末から鎌倉時代初めに至るまで
「(阿)弥陀の定印」が阿弥陀如来像の印相として継承されていきました
↓平等院鳳凰堂阿弥陀如来坐像
弥陀の定印を結ぶ
平等院阿弥陀如来像の穏やかな表情や彫りの技法は、いわゆる「和様」の完成形であり、「定朝様」として続く後代のお手本となりますが、
やがて衰退⤵︎していきます
円成寺阿弥陀如来像は、定朝様を継承し穏やかな表情を持つ和様の阿弥陀如来像です
が、同時に「定朝様の終焉」を感じさせる像です
つまり、やる気がないわけではなく、様式としてオワコンだったわけです…
それでも、
こんな山の中に
こんなにきらびやかな阿弥陀像があった!
ということは、当時どれだけありがたいことだったかと思います
ちょっと長くなったので、今回はここまで
運慶の大日如来像まで書けなかった~
円成寺の池の近くにあった、苔むした地蔵
運慶作の大日如来像はこんな立派な建物に移動していた
運慶作 国宝大日如来坐像
こちらは、阿弥陀如来像のある
改修工事中の阿弥陀堂(中に入って阿弥陀如来像を拝むことは出来ます)
足場が組まれている↓
左右に舞台のようなものがある↓
ここで踊りでも奉納したのでしょうか?それとも、二十五菩薩来迎会みたいなものをやったのでしょうか?
紅葉がきれいでした↓
↓円成寺のあと般若寺に行くため、川上というバス停で下りたところ、遠くに東大寺大仏殿の後ろ側が見えた
晩秋の奈良の素敵な風景