「運慶展」が開催中のこの時期に、
定朝のデビューの話です(へそ曲り)
(…ところで、運慶展、もう行かれましたか?
私はなかなか行けていません……まあ、あわてないあわてない…)
定朝のデビューは、鮮やかでカッコイイのでご紹介します
(デビューといっても、CDを出すなどというのではなく、「文献上」のデビューですけどね)
どんな感じのデビューだったんでしょう?
これから見ていきます
彼のデビューの年は1020年(寛仁4)です
あ!ちょうど東京オリンピックの千年前!
デビューは…藤原道長の法成寺に阿弥陀如来像を納める時でした
…藤原道長は宇治殿(息子頼通)や藤原氏一門に分担させて、無量寿院(のちの法成寺)に丈六サイズの九体阿弥陀如来像を造らせました
(丈六は平等院阿弥陀のサイズです…よく見かけるサイズですよね)
定朝はこの時はまだ「ほんの青年」でした
無量寿院の造仏は、お父さんの仏師康尚が中心 となって行われました
1020年(寛仁4年)2月には、出来上がった仏像を無量寿院の堂内に運んで安置することになりました
この時、鮮やかな「定朝のデビューシーン」があるのです
『中外抄』久安4年(1148)五月二十三日の記事の中に、寛仁四年二月二十四日の出来事として以下のように、デビューの時の記録が残ります
原文
「仰云法成寺阿弥陀堂九体仏ハ宇治殿以下公達各相分天令造立之後、自北南殿自上東門被運之由見外起日記、被奉渡御堂、(…)被居置御堂之後御堂被大仏子(←原文のまま)康尚云、有可直事哉、申云可直事候、構麻柱之後、康尚云早罷上ト云ければ其許ナル法師乃薄色指貫桜きうたいに裳ハ着て袈裟ハ不懸ざりけるつちのみを持て金色仏面をけづりけり、御堂仰康尚云、彼ハ何者ぞ、康尚申云康尚弟子定朝也、其後おぼしつきて世乃一物に成たり」
↑「かな文字」をすでに持つ時代なので、漢字の間にチラホラ「かな文字」が入っているのがなんともおもしろいですよね(^_^)
書かれている内容は次のようになります
法成寺の九体仏が造立されたので、お堂に渡らせた後、
御堂(道長)が大仏師康尚に「直すべきところはないか?」と聞いたところ、「あります」と康尚が答え、麻柱(足場)が構えられました
そして、康尚が号令するとすぐにそばにいた法師で薄色の指貫で桜色のものを着て、裳は着ているが袈裟は懸けていない者が、槌(つち)と鑿(のみ)をもって、仏像の金色の顔を削りました(修正しました)
道長が康尚に「彼は何者だ?」と尋ねました
そこで、康尚は「弟子の定朝でございます」と答えました
後に、「世の一物」と呼ばれるほどの立派な仏師になりました(^∇^)
というデビューシーン
つまり、仏像が出来上がって納品したところで、父康尚の指示により、青年定朝が足場をヒラリヒラリと登って、仏像の顔をサクサク削って鮮やかに修正したということです
「体操選手ような軽快な身のこなし」と、サクサク仏像を修正することのできる「腕の確かな、勘の良い仏師の卵」であることを印象づける
鮮やかなデビューシーンということになると思います
これで顔がイケメンなら言うことなし!
(顔、どうだったんだろう?)
しかしですね
このお話が書かれたのは定朝の評価が絶頂だった12世紀なのです
その頃、定朝仏は「定朝様(じょうちょうよう)」と呼ばれて、造仏の手本となっていたよね(これについては、またブログで書くつもり)
定朝のこの話は、いわば
定朝大人気時代に書かれた定朝のデビュー秘話なわけで全部信じていいかどうかは慎重に考える必要があると思います
よく内容を考えてみると、
せっかく金箔を塗って出来上がった仏像の顔をその場で鎚と鑿で削るってのはおかしいよね
そこだけ金箔が削られて木肌が出てしまって、台無しになってしまうもの…直すなら、事前にやっておけ!って話ですよね?
…とまあ、結構突っ込みどころ満載なデビューシーンなのですが、滑稽な話であっても真実はあると思うのです
定朝は父康尚のもとで造仏を学び、
道長が気合を入れて建てた法成寺の造仏に定朝は青年時代からかかかわり、やがて中心となって活躍しました
そこに華やかな定朝デビューの話が絡んできますが、定朝は後世に「そんなイメージ」を持たれて愛されていた仏師だったということなんじゃないかと思います
「極楽再現」などと言われる平等院鳳凰堂自体も平安後期の寺院建築のお手本とされました
定朝作の阿弥陀如来像は、「仏の本様」とか「尊容満月の如し」などと言われ、以後「定朝様」としてその様式が継承されました
… ただし、運慶展のため現在「時の人」である、
鎌倉時代始めの慶派仏師運慶は定朝様を取りませんでした
康尚とそれ以前の仏師が「仏師のあり方」として一線が引けるように、
定朝様を受け継ぐ平安後期の円派・院派仏師達と慶派仏師運慶の間は一線が引けるようですね
運慶作
円成寺大日如来像
阿弥陀如来ではないけれど、しかもお父さんの康慶の下絵もらったでしょ?な像だけど、ところで、運慶はイケメンだったんでしょうか?
関係ない話ですが
先日、「奈良美術」を専門とする偉い学者さんのお話を聞きました
その方によれば、
仏像は奈良時代に限る!
ということです
運慶を始めとする鎌倉期の仏像なんて、全然良いとは思えないんだそうです
なぜなら、「鎌倉時代は心がない」んだそうです
…どう思う?
もう一つ、ついでの話
現代の仏師さん数名と、今までに話をしたことがありますが、彼らは皆、運慶LOVE❤️です
奈良時代好きの私には、これはオドロキでした
「天平はあまり好きではない」と言われる方もいて、私はその人が嫌いになりそうでした
「彫り手」の感覚で見ると、写実の鎌倉時代、とくに運慶は「目指すべきお手本」として認識されるのでしょうかね?
テレビでも以前に京都の大仏師松本明慶さんが六波羅蜜寺の運慶作の地蔵菩薩をよく見に行くとおっしゃってました
やはり、運慶か…
一方で、「運慶よりも柔らかな快慶の方が好き」という仏師さんも一名いらっしゃいました…これもわかる気がしますよね
また、「仏師を志したきっかけとなった仏像はなんですか?」と、何人かの仏師の卵さんに聞いたことがありましたが、「京都で見た三十三間堂」という答えが複数ありました
三十三間堂の仏像群は「仏師になろう!」と決心するくらいの衝撃だったそうです……あの仏像の「量」に圧倒されたんでしょうね
(個人的には、三十三間堂は半分の長さでよかったんじゃないかと思いますけど…?たくさんあればいいっでもんじゃないよ!ってのが私の第一印象でしたから…すんません、仏師になる資格なしですね…)
人気ブログランキングへ