もし真理の世界があるとして、そもそも我々は、‘その’世界を(空間的や認知システム?的に)遅れて認識しきし、各々別のシテンにより捉えている。
それに、例え同じ‘モノ’を捉えているとして、我々は果たして、各々の五(六)感をへて、同じようにそれを捉えられるのか?という疑問がある。
それだけでない。我々は同じように捉えているように見えて全く別の(アンジャッシュのすれ違いコントや私の【「7+5(だけ)」=75の世界】のような場合もある。
もっと細かく(?)みて、言葉だけに焦点を当ててみる。ある人が誤解したまま、亡くなる場合を想定してみて、その誤解は果たして本当に間違いだったのか?という場合。
死んですでにそれは訂正できない。その人において‘それ’は死ぬ前の‘それ’でしかない。この場合に実在論として客観的世界があると主張する場合その人にどのようにそれが無いと‘いえる’のか?
私のように超越論的・独我論的に世界を捉えているなら簡単に私(彼や他人)の認識として捉えるから、その間違いは間違いとしなくてすむ余地がある。
私的には、過去形には前提の在り方として間違い等が含まれているため、なんの問題も無い。
そもそも、同じ‘モノ’とは何なのだろうか?私には真理としてのモノの在り方が全く分からない。真理としての同じと確定しなくして何故、異なるモノを認識できるのだろうか(この辺曖昧だな…)?
…なんだったっけ?
今の私の結論の一つを書いとくと、世界は、私の世界が限界だとしか思えない。
一つの真理を知れば、というよりも知覚を解明できれば世界の真理に到達できるのでは?という私の直感の一つは、言葉のトートロジー性により、それの肯定不可能に行き着いたのが今の私の限界である。