2月7日に本校で開催した、NIE(教育に新聞を)セミナー「デジタル時代のNIE」での一コマ。



その日はじめてタブレットPCと2種類のデジタル新聞に触った生徒へこう質問しました。
「つぎ使うなら、デジタル版の毎日新聞と毎日新聞Tap-iのどっちを使う?」
どちらも毎日新聞のデジタル新聞ですが、デジタル版が紙面に近いのに対して、Tap-iはタブレット対応したデジタル新聞。まるで内容が違います。





ちょっと考え、こちょこちょと相談した生徒(中1)。
「場面に応じてよりよい方を使います!」
といった返答をしました。賢い!



この「賢さ」については、単純に「教師の意図を汲んだメタ認知ができた賢さ」と考えていましたが、この中1たちは私の授業を受けたことがなく、したがって、私が授業中に「教師の学習意図を考えさせる」ことを知らないはず。
もしかすると、「ポスト構造主義」の時代にあって、私には私の育ってきた環境で形作られた考えや価値観があるが、それは絶対的でも普遍的でもなく、異なる環境下で考えや価値観を形成してきた他の人にしてみると、それは奇妙であるかもしれず、したがって、どちらが良い悪いのような決めつけはできない。このような考え方が「当たり前」になっていることが、生徒たちの返答になっているのかも、という考えが浮かんできたわけです。

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「当たり前」なので、「どっちがいい?」と聞かれた時に、「どちらにも良いところがあり、あまりよくわかっていない私には判断がつかない」と表明している、あるいは、そう表明するのが「無難な選択」になっているのかも、とまで思いました。考えすぎかなぁ。
「双方の良い点を場面に応じて生かす」という返答に喜ぶ「私」もまた、ポスト構造主義で自分自身が構造主義的な考え方をしていることに無自覚であるのだとも言えると思いました。
メタ認知も同様でしょう。さて、それに気づいて、で、どうする?

おお!この問いかけも構造主義的だ^_^;

どうしたら脱け出せるんだろう←これも構造主義的

面白いアポリアです(((o(*゚▽゚*)o))