何だか変な姿の見えない台風が日本列島を縦断しているようです。
線状降水帯も各地で発生するそうですが、これ台風ではなく気象〇器じゃないのかな。
稲刈り前の田圃に影響が出ないと良いのですが。

さて、読書しなければということで、今年の春、大三島にある大山祇神社へ参拝後に海賊ミュージアムへ訪れたこともあり、今は「村上海賊の娘」を読んでいます。

時は戦国時代、大阪石山合戦における木津川の戦い(織田水軍 対 毛利・村上水軍)が舞台です。
どうも話のストーリーはいまいち理解できないのですが、当時の大阪の地形であったり、海賊の風習などが知れたのは面白かった。

学生の頃はよく戦国ものを読み漁りました。
今もストレス解消のため、たまに「信長の野望」など戦国シミュレーションゲームをボケッと楽しんでいますが、読書は本当に久しぶり。

昔から、読書やゲームを通じて、何となくなぜか好きな武将はいます。

思いつくままに挙げると・・・

【小早川隆景】 小早川水軍

中国地方の覇者・毛利元就の三男であり、次兄で武勇の誉れ高い吉川元春ともに「毛利の両川」と称された知将で、隆景が亡くなった際には、その訃報に接したあの大軍師・黒田官兵衛(如水)にして「これで日本に賢人はいなくなった」と言わしめた傑物です。

また、元就が長男・隆元、元春、隆景に教えたと伝わる「三本の矢」の逸話は有名ですね。

小早川隆景は元就の死後も吉川元春とともに隆元の嫡男・毛利輝元を補佐し、毛利氏を盛り立てていきます。後には敵対していた豊臣(羽柴)秀吉とも良好な関係を築きました。

本能寺の変後の秀吉の中国大返しは、隆景の協力なくしては厳しかったものと思われます。

そして豊臣政権が発足すると、甥の毛利輝元とともに五大老の一人になっています。当時の五大老は徳川家康、前田利家、宇喜多秀家というそうそうたるメンバーですから、毛利氏の分家的な立場であった隆景が選ばれることは異例中の異例ともいえ、秀吉からいかに信頼されていたかの証左ですね。

因みにこの隆景の養子が、関ヶ原の土壇場で西軍を裏切り、東軍(家康)に味方した小早川秀秋(秀吉の正室・ねねの甥)です。

関ヶ原の戦いでは、吉川元春の後継者である吉川広家も西軍に属しながら、東軍に組みする働きをしたことなどもあり、東軍の大勝利となったわけですが、実は西軍の総大将は大阪城にいた毛利輝元でした。

もし仮に隆景が存命であれば、当然に輝元を支えた筈でしょうから、吉川氏や小早川氏の動向も違ってたであろうし、関ヶ原の結果も異なっていたかもしれません。

もっとも隆景が存命であれば、そもそも輝元を西軍の総大将にはさせなかったかもしれませんが。


【堀秀政】通称:久太郎

美濃の豪族、堀秀重の嫡男であり、13歳で織田信長の小姓になったといわれます。

俗説として、最初は木下秀吉に仕えていたけど、あまりに美少年であったため信長の目にとまったとか。

信長の小姓としては森蘭丸が有名ですが、まあ当時は衆道が武将の嗜みだったわけです。
五大老のひとり、前田利家も若い頃は傾奇者のイケメンで、信長と男色の関係にあったと言われています。但し、近年はこれらの説を否定する意見の方が多いようです。

さて秀政ですが、衆道か否かは別として、信長の近習(側近)として取次役や軍監としてその能力を発揮していきます。

まあ簡単にいうと信長の親衛隊や秘書的な役割を担っていたわけですが、あの信長に可愛がられていたという事実だけで、如何に有能だったか推してしるべし。

徳川家康と嫡男・信康が対立した際、その家康と信長の窓口となっていたのが秀政であり、家康からお礼を言われています。(天正7年8月8日堀久太郎宛書状)※通説では信長が信康を殺すよう命じたようになっていますが、真相は家康の判断によるものですね。

混乱の戦国期、伊勢神宮の式年遷宮は100年以上途絶えていたそうですが、外宮の権禰宜であった上部貞永が式年遷宮の復活のため、信長にその費用の負担を願い出た際、その取次役として対応したのも秀政です。

因みに上部は「千貫あれば後は勧進(寄付)でなんとか賄う」と願い出たようですが、この際の信長の返答が「一昨年の石清水八幡宮が当初修繕に三百貫といいながら千貫以上を要した。だから千貫では足りないだろうし、一般民衆に負担をかけるわけにはいかないから、まずは三千貫出そう」です。三千貫って今の価値でどれくらいなんでしょうか。

今も伊勢神宮の式年遷宮が途絶えず続いているのは、実は第六天魔王こと信長様のお陰かもしれません。

さてさて秀政ですが、近習として有能であっただけでなく、足利義昭の仮住まいであった本圀寺の普請奉行を任されたり、外交においては石山本願寺との和睦交渉に尽力し、戦場においても数々の武功を挙げる活躍で、秀政28歳の天正9年(1581年)、近江国内に25000石の領地を与えられるなど出世していきます。

どの分野においても秀でた能力を発揮する秀政に、当時の人は「名人久太郎」と呼んだそうな。

本能寺の変後の清須会議では、織田家の家督を次いだ三法師(秀信)の傅役を任されるなど、この頃の織田家中における地位も伺いしれます。

秀政は信長の死後は秀吉に仕えていますが、秀吉の一族以外では初めて「羽柴」の名字を与えられるなど、秀吉からの期待と信頼を得て、最終的には越前北ノ庄18万石を中心に実質30万石の大大名となります。しかしこれからという天正18年(1590年)、小田原征伐の陣中で38歳の若さで病没しています。

一説によると秀吉は、小田原の北条氏を駆逐した後は、徳川家康ではなく秀政に関東八州を任せたいと考えていたようです。この話が事実かどうかはわかりませんが、それくらい名人久太郎が優れた人物だったのでしょう。

もし秀政が関東八州を任され、もう少し長生きしていれば、後の関ヶ原の戦いはなかったかもしれませんね。


【蒲生氏郷】 信長の娘婿/利休七哲の筆頭

近江国(今の滋賀県)の日野に生まれ、幼名は鶴千代。
一説に蒲生氏は、平将門追討に功績のあった俵藤太こと藤原秀郷の系譜に属するそうです。

氏郷は幼少の頃、織田信長のもとへ人質として差し出されましたが、夜、稲葉一鉄という教育係の老将の話を他の子供達は眠そうに聞いているのに、鶴千代ひとり目をランランと輝かせ話を聞いていたそうで、その利発さが信長にも認められ、信長自らが烏帽子親となり元服しています。

永禄12年(1569年)に14歳で初陣を飾ると、信長の次女(相応院、冬姫)を娶り、日野に戻っています。信長の長女・徳姫は、盟友徳川家康の嫡男・信康に嫁いでいますから、信長の氏郷に対する期待の大きさも伺えるというものですね。天正10年(1582年)の本能寺の変の直後は、安土城を守っていた父・賢秀とともに信長の一族を日野城へ保護し、明智光秀と対決姿勢をみせています。

信長の死後は、一時与力となっていた柴田勝家ではなく、秀吉に仕え活躍します。

氏郷は新参者の家臣に「銀の鯰尾の兜をかぶり、先陣するものがあれば、そいつに負けるように働け」と励ましたそうですが、実際に戦場で銀の鯰尾の兜をかぶり先頭きるのは氏郷自身であったといわれるくらい武勇に優れた武将であったようです。

また武勇だけでなく茶の湯にも造詣があり、千利休に師事し、利休七哲の一人に数えられる他、和歌や連歌を嗜み、能にも優れ、秀吉の前でも度々能を演じていることから、利休からは「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評された当代きっての人物でした。

キリスト教宣教師オルガンティノもローマ教皇に、「優れた知恵と万人に対する寛大さと共に、合戦の際、特別な幸運と勇気のゆえに傑出した武将である」と氏郷のことを報告しているそうです。

天正12年(1584年)、これまでの功績により伊勢・松ヶ島12万3千石の城主となった氏郷は、近隣の四五百森を整備し、城下町を「松坂」と改め、軍事・経済の要所とし、今でも松阪開府の祖として慕われているそうです。

天正18年(1590年)の奥州仕置の結果、伊達政宗の旧領である会津42万石へ転封すると黒川城を改築して会津若松城(鶴ヶ城)と改め、ここでも日野(近江)商人や松坂商人を招聘して楽市楽座を導入するなど、町の発展に大きく寄与しています。氏郷は領国経営にも長けていました。

翌年、氏郷は旧領の回復を企む伊達政宗などと小競り合いをしながらも奥州平定した後、再仕置で加増され92万石の大大名となっています。

これは徳川家康250万石、毛利輝元112万石に次ぐ大領であり、前田利家83万石、上杉景勝70万石(諸説あり)、宇喜多秀家54万石を凌いでいます。

秀吉が氏郷を奥州の要である会津へ転封させたのは、器量人である氏郷を「上方へ置いておくわけにはいかぬ」と恐れたからだという逸話があります。また氏郷も「たとえ小国であっても都の近くにいれば天下を望むことも可能であるが、これで叶わぬ夢となった」と嘆いたとかいないとか。

ただ氏郷の死後、後の五大老の一人である上杉景勝が越後から会津若松へ移封されたことを考えると、常に最上義光や伊達政宗など東北の諸大名の動向を監視し、関東の徳川家康に対する牽制をいう大役を全うできるのは蒲生氏郷以外にいなかったのかもしれません。
※後年、上杉景勝は徳川家康から難癖をつけられ、それが関ヶ原の戦い(慶長出羽合戦)へと進んでいきます。

備前老人雑話によると、伏見城で武将同士の雑談の際、秀吉亡き後の天下人は誰かと問われ、加賀の前田利家か自分であると言い切り、徳川家康については「他人に知行を過分に与えることのできないケチだから、天下を取るべき器量ではない」と答えているそうです。

そんな自他とも認める天下人候補であった氏郷ですが、文禄4年(1595年)、40歳の働き盛りで病により亡くなっています。

(辞世の句)

【かぎりあれば 吹ねど花は 散るものを 心みじかの 春の山風】

(風が吹かなくとも花は時間が経てば散ってしまうのに、春の山嵐はなぜ短気にも花を散らせてしまうのか)

これは自身の早世を嘆いたものだったのでしょうか。
氏郷の辞世の句は、後世、幸田露伴らにより高く評価され、山田風太郎においては人間臨終図巻で「戦国武将の絶唱としては白眉である」と称賛しています。


今回、たまたま挙げた3人の武将に共通するのは、あともう少し長生きしていれば、関ヶ原の戦い(1600年)も違う結末だったかもということでしょうか。

小早川隆景は1597年没、享年65歳だったことを考えると厳しいかもしれませんが、名人久太郎こと堀秀政と利休七哲の筆頭である蒲生氏郷が、もしくはそのいずれかが仮に50歳くらいまで生きていれば・・・と考える戦国ファンも多いのではないでしょうか。

今回、村上海賊の娘を読んだ契機に、久しぶりに戦国武将について考えてみました。
勿論、現代社会において全てが通じるわけではありませんが、生きるか死ぬかの乱世を駆け抜けた武将達に学ぶことは今でもたくさんあります。