初めて出雲口伝を知ったのは数年前のことです。
出雲地方の話かと読み始めると、次第に舞台は私の郷里である大和葛城へと移ってきたので、ワクワクしながら読み進めたものです。

ここで伝えられる伝承は古事記や日本書記の内容とは大きく異なりますが、どちらかといえば敗者である側に伝わる歴史であるからこそ、十分検証する意味があると考えています。


【出雲王家】
第8代主王である西出雲王家の八千矛王(大国主)と、副王である東出雲王家の八重波津身(事代主)が徐福一派(秦族)に枯死させられた後の出雲王家。

繰り返しになりますが、徐福(ホアカリ)と高照姫(大国主の娘)の子・五十猛は出雲を去って丹後へ移り、そこで王国をつくりました。そして再び九州へ上陸した徐福(ニギハヤヒ)と宗像三姉妹の末・市杵島姫命の間の子・穂屋姫と結婚し、生まれた子が初代大和大王・天之村雲でした。

出雲王国では、事代主の長男・鳥鳴海(トリナルミ)が第9代出雲王になりました。
事代主と越の国から嫁いできた沼河姫(ヌナカワヒメ)との間の娘である美保須須美(=美穂津姫)は、美保神社を建て父・事代主を祀り、息子のタケミナカタは諏訪に移住します。

事代主のもう一人の后・摂津国三島の豪族の娘・活玉依姫(=玉櫛姫)は、娘・タタラ五十鈴姫と息子・奇日方(クシヒカタ)を連れて三島へ戻ります。この時、秦族との共生を嫌った一部の出雲族が三島へ移り住んだそうです。

※このクシヒカタは西出雲王家の美良姫と結婚しますが、その5代末裔から下鴨神社の御祭神である建津之身(タケツノミ=ヤタガラス)と、分家として太田タネヒコ(記紀では大田田根子)がでます。

摂津国三島にいたクシヒカタは、やがて当地にいた三島の人々や出雲族を引き連れて、発展性が高いと見込んだ大和国葛城地方へ移住し、自らの屋敷付近に孤島の洞穴で枯死させられた父を祀る「鴨都波神社」(奈良県御所市)を建てたと云います。

なお、弥生時代の出雲では「神」を「カモ」と発音したことから、葛城へ移住した東出雲王家「富家=大和では登美家」は「神家」(かもけ)とも呼ばれ、後に「鴨」や「加茂」の字があてられたそうです。

移住したクシヒカタは葛城で先祖代々のサイノカミ信仰も広めましたが、このクシヒカタがサイノカミ信仰を葛城で広めた記念に、出雲では出雲井神社が建てられたそうです。その後、出雲から一部の人々が伊勢国へ移住した際、この出雲井神社からサイノカミを椿大神社(伊勢国一之宮)へ移されました。

話は逸れますが、猿田彦大本宮といわれる椿大神社は、富家の伝承によれば分家の登美家のさらに分家である「宇治土公家」により創建されたそうです。サルタ彦とはもともと出雲王国で祀られていたサイノカミの一柱であり、古代インドでは「サルタ」とは長い鼻を意味するそうです。「ガネーシャ」ですね。

また少し後、物部イクメ大王に追われていた異母兄妹である豊鍬入姫も椿大神社で匿われましたが、姫は豊国の宇佐からきたので「ウサ女の命」と呼ばれ、それが「ウズメの命」として今に残っているそうです。

さてクシヒカタは鴨都波神社の他、葛城山麓にも事代主を祀る「一言主神社」を建てています。
この一言主神社ですが、「願いを一言で願えば何でも叶えてくれる」というご利益があるとして伝えられ、「いちごんさん」との愛称で親しまれています。

この「一言主神社」の御祭神である葛城之一言主大神と雄略天皇のエピソードは、よく知られているところです。
「古事記」に記されるところによると、雄略天皇は葛城山で、自分たちと全く同じ格好の集団と出会います。そしてその相手が「悪いことも一言、善いことも一言で言い放つ神。葛城の一言主の大神である」と名乗ると、天皇は恐れおののき、大御刀・弓矢・百干の衣服を差し出したといいます。

一方で「日本書紀」によると、雄略天皇と一言主神はその場で意気投合し、大いに狩りを楽しんだと記されていますが、「続日本紀」では、雄略天皇は無礼があったとして一言主神を何と土佐国へ流刑に処したとあります。

さらに時代が下った平安時代の「日本霊異記」や「今昔物語集」では、一言主神は役行者(役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、いつまでたっても橋が架からないと役行者の怒りにふれ、谷間に呪縛された、とまで記されているそうです。

どうしてこんな扱いになっていったのでしょうか。
やはり当時の権力者は「出雲」や「事代主」を歴史から抹殺しなければならなかったのでしょうか。

この葛城地域では、金属精錬技術が盛んになった痕跡があります。やはり出雲のタタラ(製鉄法)が広まったのでしょう。


【西出雲王家の人々】

東出雲王家の一部の人々は、渡来集団(秦族=海家)との共住を嫌う人たちがいましたが、それは西出雲の神門臣家勢力も同じであり、西出雲王家・神門臣家の「多岐津彦(大国主の孫)」は、クシヒカタを頼リ、葛城南部に移住し、その方面を開拓します。
葛城は古くは「カヅラキ」と発音したそうですが、今は「カツラギ」と呼ばれています。

多岐津彦は、大国主の息子であり父である「味鋤高彦命」と祖母「多岐津姫」の霊を祭るため、全国のカモ(鴨・加茂・賀茂)系の総本社といわれる高鴨神社を建てています。
この高鴨神社は、私のお気に入りの神社の一つです。

高鴨神社の宮司は「鈴鹿家」ですが、元は中臣連であり始祖は「天児屋根命」だそうですが、現当主は八十五代目に当たり、天智天皇の右大臣で「大祓詞」を創り、佐久奈度神社を創建した「中臣金連」や、神社覈録(じんじゃかくろく)を著した江戸時代末期の神官・国学者「鈴鹿連胤」がご先祖様にいるそうです。

多岐津彦の神門臣家は後に「高鴨家」と呼ばれていきます。
なお、多岐津彦の妹(あるいは姉)の大屋姫は五十猛(=香語山)に嫁いで高倉司(タカクラジ)を儲けていましたが、後に高倉司とともに葛城に移ってきました。今も葛城には大屋という地名が残っています。
さらに後年、高倉司は紀の川の河口に移住し、「大屋都姫神社」を建てていますが、徐福が中国から持参した竹や梅などを植林したことから、その地は「木の国」と呼ばれ、後に「紀伊の国」と呼称されるようになりました。高倉司の家系は後に紀伊国造「紀伊家」と呼ばれ、高鴨家と紀伊家の両者は大和王朝内で大きな影響力を持ったそうです。

多岐津彦は同じく葛城の地(御所市東持田)に葛木御歳神社も建てています。
この神社は全国にある御歳神社・大歳神社の総本社を称し、高鴨神社(高鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「中鴨社」と呼ばれています。

また一言主神社と高鴨神社の中間地点くらいに「高天」という地名がありますが、その近くに高天彦神社があります。
この辺りからは大和盆地を一望することができますが、とても好きな眺望です。甘樫丘から大和盆地をぼんやり眺めるのも好きですが、どちらとも遥か昔、ここから同じように眺めていたのではないかと感じることがあります。
ただ、高天彦神社はまわりの鴨系の神社とは少し雰囲気が違うなと、以前から感じていました。


高天彦神社の主祭神は「高皇産霊」(タカミムスビ)です。「高天彦」は「高皇産霊」の別名だそうですが、高皇産霊は男神ではなかったようです。
高皇産霊は別名を「高木神」と呼ばれていますが、彼女の名前は「栲幡千々姫」(タクハタチヂヒメ)と言うそうで、記紀では両者は母娘とされていますが、同一の人物のことのようです。
栲幡千々姫は日本に渡来した「徐福」の母親の日本名であると云い、徐福の父親は徐猛といい、記紀では「押穂根」(オシホネ)と書かれています。徐福は二度来日していますが、最初の渡来地、「出雲」から「丹波・丹後」地区にかけての「海家」の地盤には、高皇産霊・高木神を祀る神社はほとんど見られませんが、二度目に来日した筑後平野一帯には、高木神を祀る神社が数多く鎮座しているようです。
これらのことから高天彦神社は、後に東征により大和入りした物部氏により創建されたのではないでしょうか。それであるならば、近隣の鴨系の神社とは雰囲気が違うのもわかります。

なお、この地域には先住民で朝廷に従わなかった土蜘蛛と呼ばれる人々がいたそうです。ちょっとこの辺の話を深く考察するのは、今回は避けようと思います。

そして葛城編の最後にようやく私の氏神さんである葛木坐火雷神社が登場です。
話は少し戻りますが、丹後へ移った五十猛(=香語山)の子、海ノ村雲(後に天ノ村雲)は、丹波国主となっていましたが、クシヒカタの「登美家」や多岐津彦の「高鴨家」が大和葛城地方を開拓している噂を聞いたのでしょうか、大和が敷島の国の都に相応しいと同じく移住を決意します。

天ノ村雲は多数の丹波人や秦族を連れて琵琶湖を南下し、宇治川から木津川を経由して大和葛城の笛吹近辺に居住地を構え、火雷神社を建てます。
葛木坐火雷神社の元々の祭神は「火雷大神」(ヒノイカヅチノオオカミ)で、後に笛吹神社の祭神である天香山命(天之村雲の父・五十猛)に合祀されたと社伝は伝えています。

「宋史・外国伝」に、「天村雲尊」の名が記されています。天之村雲命の宮所は、鴨都波神社の北西「笛吹」の地でした。その周辺は「高尾張邑」と呼ばれていたので、海家は尾張家と呼ばれるようになります。

当社旧記によれば、「尾張家の血を引く御子の大彦命は、笛吹連とともに侵入軍と戦った」と記されているそうです。笛吹の東北「曽大根」(大和高田市)で育った大彦は、「中曽大根彦」(ナカソオネヒコ)と呼ばれますが、彼が神武天皇の東征時、大和入りを拒み抵抗したとされる「長髄彦」(ナガスネヒコ)のモデルの人です。

天之村雲が大和葛城入りをする際、彼が徐福の地を引く海家(秦族)であることで「登美家」・「高鴨家」の人々はかなり警戒したようですが、天之村雲はクシヒカタの妹であるタタラ五十鈴姫と結婚し、出雲族とも共生することにより、初代大和王朝の大王となります。
※いわゆる神武天皇の后も媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)

富家の伝承では、天之村雲が大和の初代大王に就任した時、その祝いとして出雲王が贈った剣が、「村雲ノ剣」だそうです。この剣は尾張家が持っており、後、熱田神宮に移して、境内の八剣社に神宝として奉納し管理しました。
神話ではスサノオが八岐大蛇を退治した際、大蛇の尾から出てきたと云われ、ヤマトタケルが敵の放った火に囲まれ窮地に陥ったとき、草を刈り払い脱出し、草薙剣と呼ばれるようになった三種の神器の一つの剣です。

大和王朝の王家はその後、尾張家から登美家(磯城)へ移りますが、王位継承のシンボルとして勾玉の首飾りを作っています。また和歌山市の日前神宮の話によると、石凝姥命が鏡を造り、姫巫女に捧げましたが、それが今は伊勢内宮の神宝となっている、と云われているそうです。これらが三種の神器といわれるものですかね。

私の好きな神社の一つに、奈良県磯城郡田原本町にある鏡作坐天照御魂神社があります。
ここの主祭神は「天照国照日子火明命」(アマテルクニテルヒコホアカリノミコト)、「石凝姥命」(イシコリドメノミコト)、「天糠戸命」(アメノヌカドノミコト)となっています。
ここは日向の物部から大和へ寝返った武内宿禰が、呉の鏡作り工人に三角縁神獣鏡を造らせた場所の一つと伝えてられています。
当時の人々は、大型の鏡を好んだので、鏡を大型に作るよう指示したそうですが、銅鏡は大型にすると割れやすくなってしまうため、銅を節約しつつも丈夫にするために、鏡の縁を厚く三角縁にする方法が採られたそうです。

次は磯城編へ。