巨大古墳シリーズ第3弾、 「池の中を泳ぐ魚がモチーフではないか?」と勝手に思ったのが、下の写真4枚目『岡ミサンザイ古墳』です。
一見、タイ焼きのような形、古代にはそんなものはありもしませんが・・・。
ところで、ピラミッド、秦の始皇帝陵、マヤ王朝などは子孫が絶えているために、その全貌をうかがい知ることができます。
日本はというと、「現在の皇室の祖先が葬られ、今も祭祀が行われている墓であり、陵墓の静安と尊厳の保持のため」(宮内庁)前方後円墳ファンとしては、いささか疑問が生じるのですが・・・。
文字もない時代、入り口に墓碑銘があるはずもなく、「東北から九州にかけて前方後円墳は、5,000基もある。」(ウィキペディア)という以上、その土地の有力者とみるべきではないでしょうか。
宮内庁の陵墓一覧を見ると、第9代開化天皇陵から第30代敏達天皇陵までが前方後円墳で、第31代用明天皇陵から方墳のような形態が続きます。
ところが、第46代孝謙天皇陵(第48代称徳天皇)は突如として前方後円墳の出現、予想だにしない治定(指定)となっています。
因みに、教科書にも出てくる第45代聖武天皇、その陵は「封土は円径で、墳頂は五角形。」(『天皇陵総覧』)とあり、形状すら判然としません。
また、第21代雄略天皇陵は円墳、第23代顕宗天皇陵も円墳(推定)等、整合性に欠ける点も気になります。
さらに、それらの中でもただ一つだけ、全国第21位の大きさを誇る継体天皇陵は、大阪府茨木市とずいぶん離れたところに位置しています。
さて、今夜の一人読書会、古代史の謎解きロマンに浸ってみましょうか。
★★★★★★★一人読書会★★★★★★★
平安時代の927年に、「延喜式 諸陵寮」には、陵墓の一覧表が載っている。
このころまでは、歴代天皇の陵の位置は、ほぼわかっていたようである。
その後、平安末から鎌倉、室町、戦国時代に移るにつれ、皇室の権威は失われ、国はみだれ、天皇陵の位置は不明になっていく。
谷森善臣は、「山陵考」のなかで、天皇陵比定の根拠を、くわしくのべている。
現在の天皇陵のほとんどは、谷森善臣らの考証にもとづいて決定されたものである。
(安本美典『天皇陵総覧』)
ミサンザイ古墳※神武天皇陵(宮内庁)
ミサンザイとは、陵(みささぎ)の転訛といわれる。
中心の丘(墳丘)は、明治31年に造作されたもので、径約33メートル、高さ約6メートルの八角形を呈した構造物で、頂部は平垣である。
周囲は、南北116メートル、東西126メートルの方形に堀を巡らす。
もとより後世に造作された古墳のため、埋葬施設等は存在しない。
(植野浩三『天皇陵総覧』)
岡ミサンザイ古墳※仲哀天皇陵(宮内庁)
墳丘長242メートル。幅広い周濠は、長いところで50メートルもある。
推定築造年代は5世紀末頃で、仲哀天皇の推定崩御年代とは大きなズレがある。
そのため、5世紀後半にヤマト王権を支配した第21代雄略天皇が真の被葬者ではないかともいわれている。
大きさでは、全国16位という巨大古墳である。
(水谷千秋『仁徳天皇陵と巨大古墳の謎』)
島泉丸山古墳・島泉平塚古墳※雄略天皇陵(宮内庁)
直径75メートルの円墳が堀に浮かんで見える。
1864年までは円墳だけが「雄略天皇陵」だったが、明治18年(1885年)の修陵によって前方後円墳に見えるような形に整備され、現在に至っている。
(水谷千秋『仁徳天皇陵と巨大古墳の謎』)