結構難しいんですね。この判別が・・・。
自分の都合に囚われているか、そして、誰のための自分であろうとしているか・・・。
今回見抜けず、頑なになってしまっていました。やっぱり人生失敗はつきものですね。

他のことに気を取られていると、人の気持ちを踏みにじっていることも
分からなくなり、堂々と人を拒否している自分がいます。

子どものわがままや自分の居場所に囚われているだけなんて、
気づけませんでした。

自分がなにをしなければならないかという観点で見る時、
誰かの喜びのために自分がありたいことには変わりはないのだけれど、

その関係に愛し合いたいという欲求がない場合は、
どちらかに自主性が欠けて、共に育っていくのではなく、
お互いの別個の既得権益を守るためだけの関係になってしまいそう。

それって、結局自分の能力、力を自分のためだけに使っているような
ものなんじゃないかしら。

誰かの期待に答えて、誰かに気にいられて、誰かに重宝されるのは
うれしいかもしれないけれど、そこに愛し合うという関係が育っていく気配が
ない間柄に何か進展があるでしょうか。

お互いに対する関心や、お互いに大切にしあう気持ちがないのに、
ただ利用しようと思っているだけのところで、まともな関係がつくれるでしょうか。

誰かの喜びのためという、その誰を優先したいところですが、
愛で物事を考える時は、その誰ということじゃなくて、どうすることが愛があるといえるかを
自分の行動を基準にして考えることが優先なんだということが分かりました。

愛がある人のところに自分も行くしかないし、従うしかないし、
その真心を信じるしかないということです。

そうすれば、自分が今ここにいるという確信は自分の力によってではなくて、
自分との関係を心から必要と感じてくれる人によって高まります。

私は人の役に立っている、貢献しているという自信は
ただ人の指示に従うだけではなくて、自分からそこに行ってそこで人と関わりたいという
自主性からスタートした時に、よりいっそう高まるのかもしれません。

自尊感情はとても大切です。
そして、それは皮肉なことに、自分が大切だからてと殻に閉じこもっていては
いつまでたっても高まることがないでしょう。

傷つくリスクをおっても、自分の殻を打ち破って出て行き続けて、
失敗して、傷ついて、それでも諦めないところに、
いつかはプレゼントのようにやってくるものだと思います。