会社から指定された健康診断を受けるために7/4の木曜日を休んだため、4勤の週。
3月末に受けた入社前健康診断とほぼ同じ内容なので、正直、面倒でしかないけれど、いろいろと“未熟”な会社のようなので、とりあえず受けただけ。そもそも健康自体に興味がない僕には、ちょっとした休日になった。
そしてこの土日。
昨日は上映スケジュールが通常と違っていたため、通常に戻った今日のシネマネコさん、12:05上映回を鑑賞しに行った。
いつものB-5の座席で、3時間に及ぶ作品に備えた。
オッペンハイマー
雨が降る中、オッペンハイマーに近づくストローズ。
【プロメテウスは人間に火を与えた。その罰として永劫の苦しみを与えられた】
アメリカ原子力委員会の委員長であるストローズが、高等研究所の所長としてオッペンハイマーを迎えたのだ。
科学者ではなく、靴売りからのし上がってきたストローズ。
「卑しい靴売りを?」
オッペンハイマーの言葉に怒りを覚えながら「卑しくはない」と否定するストローズ。
その敷地にある池に立っている男に興味を持つオッペンハイマーにストローズが“天才科学者”と男を評するとオッペンハイマーは「天才科学者“だった”男だ」と言い換えた。
そして、面識のあるその男のそばへ向かうオッペンハイマー。
“アルベルト”と呼ばれたその男と軽く話をするオッペンハイマーだったが、アルベルトは不機嫌に去っていくのだった。

ストローズは公聴会に臨もうとしていた。
閣僚入りを目指すストローズは、あくまでも参考人という形であったが、イラつきを隠せなかった。
すべてはオッペンハイマーとの関わりのせいだ。
「あの時、アインシュタインになにを言ったのか?」
ストローズはあの日、池のほとりでオッペンハイマーと話した後のアインシュタインの表情が気になっていた。

一方、赤狩りの時代。
オッペンハイマーは密室での聴聞会の席にいた。そこでは共産主義との関わりを追求されていく。
その中で、オッペンハイマーはハーバード大学を出た後、量子力学を学ぶためにケンブリッジ大学へ行くために国外に出たことを話し始めた。
若きオッペンハイマーは、当時、量子力学を軽くみていたアメリカから海外へ出たのだが、実験は苦手で、理論だけではあったが、その頭脳にはケンブリッジのボーアからも一目置かれていた。
そのボーアの勧めでオッペンハイマーはゲッティンゲン大学へ移籍。
ハイゼンベルクと知り合い、理論物理学への道を本格的に歩み始めたのだった。
その道中、物理学者のラビとも出会い友人となった。

アメリカに戻ったオッペンハイマーはバークレーの大学で教鞭をとるようになった。
しかしそれはまだまだ知られていない“量子力学”。
その隣は実験物理学のローレンスの部屋だった。
徐々にオッペンハイマーの講義に聴講生が集まっていった。
量子力学から星の消滅、ブラックホールの存在などを理論的に解説していったのだ。
そんな中、スペイン内戦が勃発したこともあり、弟に誘われて共産党の集会に顔を出すようになっていった。
世界が共産主義へ高ぶっていた時代だ。
しかし、オッペンハイマーは入党しなかった。
そこで出会った党員のジーンと恋仲になったオッペンハイマーは、勉強中だというサンスクリット語の本の一節を読んで聞かせた。
「我は死神なり、世界の破壊者なり」


そんなある日、ドイツが核分裂に成功したというニュースが報じられた。
理論的にはあり得ないとされてきた核分裂だったが、ローレンスの実験で実証されたことを目の当たりにするオッペンハイマー。
それは“爆弾”につながっていく発見だとすぐに直感したオッペンハイマー。
ナチスがそれを手にすれば世界はひれ伏すことになる。
そして第二次世界大戦が始まった。
その中盤。
グローヴス大佐がオッペンハイマーを訪れた。
それまで極秘に進められていた【マンハッタン計画】だったが、物理学者の間ではすでに情報が広まっていた。
とっつきにくいオッペンハイマーに辟易したが「ドイツは原爆開発で1年以上の差をつけている」という力説に、グローヴスは優秀な科学者であると認めオッペンハイマーをリーダーに抜擢した。
オッペンハイマーがドイツに先行できると見込んだ理由は、物理学がユダヤの科学であること。そのため反ユダヤであるヒトラーが本腰を入れないであろうというものだった。
そしてニューメキシコ州の先住民の土地ロスアラモスを借り受けて、そこにアメリカ中の科学が集結する町を作らせた。
集められた科学者たちは家族とともに移住させた。
エドワード・テラーをはじめ、オッペンハイマーが各地から集めた科学者たちによって、原爆の開発は進められた。
ロスアラモスは有刺鉄線で囲われ、国家の重要機密となった。

ストローズは公聴会の合間に、オッペンハイマーとの忘れられぬ出来事を思い出していた。
アイソトープの輸出や水爆に関することで確執が絶えなかった。
なかでもアイソトープの件では公聴会で恥をかかされたという苦い思い出があった。
太平洋上で観測された放射線によって、ソ連の原爆実験が明らかになった頃、二人の確執はさらに激しくなっていた。
水爆の開発を進めようとするストローズに対し、オッペンハイマーは反対し続けた。
「アメリカが水爆を開発すれば、ソ連も開発する」

ロスアラモスでも、テラーが水爆開発を進言した際に、一笑に付したオッペンハイマー。まずは原爆だった。
一方でオッペンハイマーは常に軍の監視下にいた。
それは共産党集会への出入りがあったためで、危険人物として扱われていたのだ。
そのため機密情報へのアクセス権を与えられていなかったのだ。
そんな中でジーンの元を訪れたオッペンハイマーは、別れを告げた。
それは妻子のためでもあったが、ジーンとの接触は軍からの疑惑をさらに広げてしまう。それでも重要人物であるオッペンハイマーにはアクセス権が認められた。
そんな中イギリスから招聘されたボーアはオッペンハイマーに忠告した。
「君は人類に滅ぼす力を与えた。でもこの世界には早すぎだ」
そしてサンフランシスコからの連絡でジーンの自殺が知らされ、一人打ちひしがれるオッペンハイマー。
そこへやってきた妻のキティは「僕が殺したんだ」と悔いるオッペンハイマーに「罪を犯しておいて同情して欲しいなんて!」と任務を果たすように促すのだった。
しかしヒトラーが自殺したことでドイツが降伏してきた。
このことでロスアラモスの科学者たちは考えを改めようとしていた。
原爆は開発するべきではない、と。
「まだ日本がある。原爆を投下してこの戦争を終わらせる」
オッペンハイマーは原爆開発の反対集会に集まった人々に向けて語りかけた。
「世界は恐れない。理解するまでは。世界は理解しない。それを使ってしまうまで」

そして投下する都市の選別。京都は文化的価値から除外され、11の都市が候補に挙がった。
その席上、オッペンハイマーは揺らいでいた。原爆が及ぼす影響について。
しかしそれが抑止力になるという意見が多数だった。
「一度目で脅威を。二度目で降伏を」
ポツダムでの会談の前に実験を成功させたい軍本部の意向は、同盟国となったソ連への牽制も含めたものだった。
そして1945年7月15日を実験の日と定め、ロスアラモスでは準備に追われていた。
爆風の到達距離などの計算も何度も重ねられた。
天候が悪かったが雨のあがった16日早朝。
ついに世界初の核実験が行われた。実験名【トリニティ】。
その爆炎は高く舞い上がり、光が通り過ぎた後、しばらくしてから強烈な爆風がやってきた。
心配された“大気への引火”は起こらなかった。
実験は成功したのだ。
そして小型の箱と大型の箱に入れられた原子力爆弾はロスアラモスから運び出されていった。
トルーマン大統領がソ連のスターリンへ“新型爆弾”の存在を示唆したところ、ぜひ日本へ使って欲しいとだけ言われたと、グローヴスがオッペンハイマーに伝えた。
そして8月6日。
アメリカ時間ではまだ5日だったが、オッペンハイマーは連絡を待ちきれずに眠れずにいた。その日、原爆が投下されるのだ。
しかし一向に連絡はなく、ラジオでトルーマン大統領の演説が流れてきて広島への原爆投下を知った。
世界が始めて“原子力爆弾”という存在を知った瞬間だった。
日本が降伏し、戦勝ムードの中、原爆を生み出したオッペンハイマーは喝采を浴びていた。
しかし、徐々に伝えられる広島・長崎の惨状が、オッペンハイマーに罪悪感を芽生えさせ始めていた。

聴聞会では数々の友人たちがオッペンハイマーについて証言していった。
誰一人、オッペンハイマーの忠誠心を疑う者はいなかったが、人として付き合いにくい性格であることなどは語られた。
そしてオッペンハイマーがソ連のスパイであるという疑惑は、さも事実であるように聴聞会は進んだ。

終戦後【原爆の父】としてTIME誌の表紙を飾り、時の人となったオッペンハイマーは、ついにトルーマン大統領への面会を許され、ホワイトハウスへやってきていた。
核兵器の開発競争を止めるよう進言し、世界の核兵器を管理すべきだと言うオッペンハイマーは、名声とは裏腹に「私の手は血塗られたように感じる」と伝えた。
「ヒロシマ、ナガサキの人々が原爆を作った人間を恨むと思うか?恨まれるのは、落とした人間。私だよ」
弱気なオッペンハイマーの発言に嫌気がさしたトルーマンはオッペンハイマーとの面会を中断し「あの泣き虫を二度と近づけるな!」と罵声を浴びせた。

公聴会の合間に発行されたばかりのTIME誌に、ストローズの言葉がそのまま掲載されていたことを不審に思った若い男が、すべてストローズが仕組んだことなのではないかと疑念を抱いた。
オッペンハイマーの聴聞会も、スパイ疑惑も、ストローズの企みによるものだった。
恥をかかされたことを決して忘れない執念深さ。
それを感じていた科学者ヒルは、公聴会で予定にない発言を行い始めた。
それは科学の場からストローズを退場させたいという声があることだった。

妻も証言させられたオッペンハイマーの聴聞会は終了した。
オッペンハイマーはスパイ疑惑は晴らされたが、危険人物との接触を理由にアクセス権を失った。公職追放という処分だった。

ストローズの公聴会は紛糾していた。
そして採択がなされた。無事にアイゼンハワー大統領の閣僚入りするか、靴売りに戻ることになるのか。
閣僚入りは反対された。反対した人物の一人は、ジョン・F・ケネディだった。
理由は、オッペンハイマーとの確執だった。

あの日。池のほとりでアインシュタインとオッペンハイマーが話していたこと。
「大気への引火の可能性の計算を見せて、君を不安にさせた」
それは原爆開発中の出来事への謝罪だった。
アインシュタインはオッペンハイマーを励ました。
事実、その後オッペンハイマーは物理学の賞を受賞し、勲章を得た。
「私たちは世界を滅ぼした」
その言葉を受けて、アインシュタインは去っていったのだ。

悲しそうに高等研究所を眺めるオッペンハイマーにキティが声をかけた。
「どんなに罰を受けて苦しんでも、世界は許してくれないわ」

見応えのある180分だった。
五感に働きかける映像、音効は、突き進みながら揺らいでいくオッペンハイマーの心情を見事に演出していた。
ただ構成が複雑で、時系列がわかりにくいことで、難解な雰囲気になってしまっているのが残念なところだろう。
実際、オッペンハイマーの聴聞会は1954年で、ストローズの公聴会は1959年。
そもそもストローズの公聴会は“オッペンハイマー事件”に関するものだということが伝わってきにくい。だからここだけモノクロにしたのかもしれないが、現在をまるで過去のように見せる手法で、混乱してしまう。
よくよく考えると、このモノクロの部分だけがオッペンハイマーが見ていないものなのだ。ほぼ全てがオッペンハイマーの視点で描かれる作品の中で、そうでない部分がモノクロになっている。
テーマがテーマだけに、国内での公開が長らく未定だった中、アカデミー作品賞を受賞したこともあってか、ついにこの手の作品が劇場公開されたのだろう。

オッペンハイマーを扱った作品といえば1989年の『Fat Man and Little Boy』(海外向けタイトル“シャドー・メーカーズ”)は日本では劇場未公開の決定がされた。
なぜかDVDなどは流通しているのが不思議でならないけれど、原題はあまりにも直接的だ。ちなみにこの作品はマンハッタン計画を描いているのでグローヴスが主役だ。
終戦に向けて原爆開発を各国が行っていたのは、様々な映画で語られているけれど、日本だって開発しようとしていたことは『アナザー・ウェイ ―D機関情報―』で描かれている。

実際のことはわからない。戦時下にあれば、細菌兵器だって作るし拷問も行う。竹ヤリで戦闘機と戦おうともするし、虐殺もせざるえなかったといえるのが、戦争だ。
原爆のシーンや広島・長崎の惨状を伝える映像がないとこの作品を批判する人がいるようだけれど、それはお門違いだろう。オッペンハイマー自身、ラジオでしか聞いていないのだから。
ただ、予想を遥かに超える人間が死んでしまったこと、結果的に22万人を殺してしまったことに、終生罪悪感を抱いて過ごしながらも、FBIの監視下で、それを表現することができなかったオッペンハイマーの苦悩は計り知れない。
ウィキペディアによれば1964年、被爆者がオッペンハイマーを訪れた際、涙を流して何度も謝罪したという。

「どう使うかまでは決められない」
科学が生み出したものの多くは、このオッペンハイマーの言葉に尽きるだろう。

木曜日の健康診断は小作の新町クリニックで受けた。
せっかく小作なので、少し歩けば吉野家さんもある。
でもこの日は、ブログで読んだ“うどーなつ”を食べてみたくて、丸亀製麺さんへ向かったのだけれど、なんと改装工事中・・・。
うどーなつは、またの機会になり、幻になった(笑)
で、吉野家さんに戻るのも考えたのだけれど、途中にあったくら寿司に、軽食のつもりで入って、日本酒のつまみに25皿と、比較的ふつうの量を食べてしまっていた。

えんがわさんは、北海道フェアのものと通常メニューのものとで分かれていたので、もちろん複数皿食べた。
ただ、やっぱり回転寿司のカウンター席は狭い(笑)
今年は築地で美味しい寿司を食べてしまったので、寿司という感覚が薄れたくら寿司さんだけれど、同じものを何度も好きなだけ食べれるのは、気楽でいい。

シネマネコさんに行かなかった昨日の土曜日は、昼ごろまで二度寝を繰り返して、いつもの週末のようにとんかつ定食を食べにでも行こうかと思ったのだけれど、なんだか毎週のように食べに行ってしまっていたので、気分を変えて東青梅のサイゼリヤさんへ向かった。
しばらく来ないうちにメニューもだいぶ変わっていたけれど、とりあえず適量を考えながら注文。何度も店員さんを呼んで、紙に書いたオーダーを渡し過ぎたのか、デザートの頃には「これでお済みでしょうか?」と恐る恐る訊かれてしまった(笑)

今日の多摩川。
食べ物の話題が続いたので、今日の昼ごはんも一応書いておくと、お決まりのマクドナルド3000円分(笑)
とはいえ、ビッグマックセットと、フィレオフィッシュセットと、ジャーマンポテト肉厚ビーフ、ポテトL、チキンマックナゲット15ピースだけなので、抑えたほうだ。
今月の男子会は、店も日にちも決まったけれどなかなか人数が揃わない。
販売員が中心のメンバーなので、土曜日開催だと集まりにくいのだ。
まぁ、最少人数でも問題はないのだけれど、一周年なので、ちょっとだけ盛大にやりたいというところだけれど、難しいものだ。
あとは、連絡待ちの件がひとつあって、その連絡がきたらとても嬉しい、楽しみな出来事ができるだろう。

まぁ、多くを望むことはない。
とりあえず、今月いっぱいまでと言われていた東中神の現場への配属が、なし崩し的に延期されることが決まったので、真夏の建設現場で熱中症にならないように日焼けする日々が決まった。
青梅は東京都内最高気温40.8℃の記録地点。
せっかくだから、今年こそ記録更新して欲しい(笑)

夏は暑いものなのだから、暑くていい。
想うだけじゃ心届かない、夏って感じで、暑いほうが好きだ。