3連勤で1休。
今日の休みを終えるとまた3連勤で、ようやく2連休となる変則シフト。

今月はスタートダッシュでそこそこ売れていて、少しだけホッとしている。

それよりも、他社製品の販売対応でお客様から感謝の言葉を貰える機会が多くあって、実績よりもそっちのほうが嬉しく思ってしまう。

普通に話しながら案内をしているだけなのに、他の販売員からも褒められたりして、どうしてなのかよくわからず照れてしまったりした。

そんな3連勤を終えて、今日はシネマネコさん13:50上映回を鑑賞しに向かう。

B-4の座席が埋まっていたため、いつもの人が「どうします?」と聞いてきたけれど、いつも通りB-5を発券してもらう。

B-4の人がB-5に座っていたので、どいてもらったら、どこか別の席へ移っていった。

 

劇場版 永遠ノ矢 トワノアイ
東京の菅野家では母方の祖父の葬儀のため、海と妹の環菜は母親が話し合っていた。
母方は九州。父親は海の幼い頃に他界していた。
長男の一矢とは数年間、連絡がつかないでいた。

九州の母方の実家で葬儀を終え、親戚から25歳にもなってアルバイトの身である海は、父親の墓も建てていないと責められていたが、母親が言い返したことから叔父たちが海も環菜も知らなかったことを口走り、環菜とは血のつながりがないことが判明する。
戸惑う環菜は海のことを「兄」と呼んだり、母親を「母」と呼ぶことさえできなくなってしまう。

海は母親に言われるまま、兄の一矢と父親の遺骨の件を話すために北海道へ向かう。
幌加内は父親の生まれ育った土地。そこへ遺骨を撒いて欲しいというのが父親の願いであり、その場所を探しに行くと出て行ったきりの一矢。
その地に着いた海は、そこで地元の人々と出会い、一矢の消息を知る。
[とは爺]と呼ばれるヨシハルと過ごしているという一矢。
ヨシハルは、アイヌの勉強をしていると言った。
一矢と再会したものの、一矢は一向に話し合う気配がなく、ただヨシハルと矢筒の伝承を語り合うだけ。
その矢筒は、一矢の父の遺品。父がそのまた父からと代々受け継いできたもので、先祖で弓の名手【イソンクル】のものだった。

1669年。首長であるシャクシャインが、アイヌに不利な条件で交易をしてくる松前藩に蜂起し、破れた。
その際、追ってくる幕府軍の蠣崎広林を弓で狙うはずの【イソンクル】が、その矢を空に放ったという。
【イソンクル】は、なぜ矢を空に放ったのか?

ヨシハルは、一矢の父の兄。
なにかにつけ「○○とは?」と聞き返してくることから[とは爺]と呼ばれているが、アイヌとして生きることの意味を考え続けていた。
一矢に矢筒の中を覗かせて何が見えるかを問い、何も見えないと答えると「では闇が見えているのだ」と答える。
ヨシハルの元に集まる人々は【ウタリ】と呼ばれる。
[アイヌの仲間]という意味だ。
アイヌ語で交わされる挨拶【イランカラプテ(irankarapte)】は[こんにちは]として使用される。
海はなすすべがないまま日々を過ごすが、そんなある日、埼玉から来ているという自転車乗りの男が、ヨシハルの作業場脇にテントを張らして欲しいと言い出す。
彼は自転車で各地を回っていたが、しばらくここに滞在するという。
そんな中、東京から環菜もやってきた。
自分のルーツを探そうとする環菜に、ヨシハル達は協力的だ。
一方で、海はここで起こる全てのことが理解できず「わけわかんねえよ」と吐き捨てる。
「東京の人は、わからないのに偉そうに物を言うのか?」
ヨシハルの言葉に戸惑う海。
「わからないなら、教えてくださいと言うものだし、それをしないなら、考えるものだろう。わからないことをわからないままにしているのに、なぜそんなに偉そうな口調で話せる?」

環菜は、自分のルーツに触れ、徐々に落ち着いてきていた。
一矢はそんな環菜とは、しっかりと話をする。
一方で海とはまともに話さなかったが、その理由はヨシハルの言うことと一致していた。
「自分で何も考えずにいるからだ」
一矢の言葉に、二の句が出ない海。

やがて母親も幌加内にやってくるが、その夜、埼玉の自転車男がtwitterで、アイヌのことや自分たちのことを揶揄していたことが判明する。
言い争いになりながら、殴りかかる代わりにアイヌの民族舞踊を踊る。
虐げられてきたアイヌの心。
自転車男が軽々しく使っていた【イランカラプテ(irankarapte)】の意味。
本来の意味は【あなたの心に触れさせて欲しい】というもの。
「会う」ということは、そうゆうことだと語るヨシハル達の言葉に、自転車男も自分の軽々しさを恥じ入るようになる。
そして、そのやりとりは海の心も変えていった。

夜の櫓に登っている一矢のもとにやってきた海は、一緒に櫓に登った。
見渡す限りの闇。
一矢は【イソンクル】が放った永遠に飛び続ける矢が見えると言う。
「何も見えねえよ!」
「それでいい。見ようとすることが大事なんだ」
そして矢筒を海に渡して、これを持っておくように言う。
「お前と同じだ」
「空っぽってことかよ」
「なんでも入るということさ」

全員がアイヌ民族舞踊を舞う。
その中で、海は東京に戻ることを告げ「さようなら」と言おうとするが、ヨシハルがそれを制す。

「アイヌに“さようなら”という言葉はない。別れ際には【スイ・ウ・ヌカラ・アンロ】と言う」
それは[また会いましょう]という意味の言葉だった。

2019年高円寺で初演された舞台。
【アイヌ】という題材を真正面から描いている。
【アイヌ】というのが【人間】という意味であること、文字や絵という文化を持たなかった理由、言葉や文化を禁じられ迫害された歴史。
それらの出来事を、海と環菜という人物が体現していく。
「わからなくても良い。わかろうとすることが大事なのだ」というヨシハルの言葉はいつの時代にも深く心をえぐるだろう。
アイヌの人々でさえ、自分がアイヌかどうかがわからないという現代。
それは、そうさせた日本の政策によるものでもあるけれど、自分のルーツを知らないままでは、自分さえ見失ってしまう。
そんなことを感じさせてくれる作品だったけれど、できれば生の舞台で観たかった。

本当は、今日は昼ご飯を近所の和食屋「まつもと」さんで天丼を食べようと思っていたのだけれど、朝の検温報告後に二度寝したら13時だったので諦めた。
たった3連勤だったのに、疲れていたのだろうか。
脚が動かないほどだったので、自分でも驚いた。
明日からの3連勤でも歩き続けることは目に見えている。
それにしても疲れやすくなったし、回復力がなくなったと感じて自分を嫌になる。

また販売員仲間が何人か辞めていく。
「今月いっぱいなんです」と挨拶されて寂しくなる。
何度、何人を見送っても慣れることがない。
【スイ・ウ・ヌカラ・アンロ】
その気持ちをいつも持っているから、僕も「さよなら」と言うことはない。