天誅組終焉地を訪ねて・・・Ⅲ | ナオピョンの幕末・維新史跡巡り

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   『天誅組終焉地を訪ねて』・・・Ⅲです。

 今回は、天誅組三総裁の一人、「吉村虎太郎」の戦死地、天誅組終焉の地  他をご紹介します。

 天誅組「湯ノ谷墓地」、藤本鉄石(津之助)」戦死地、「松本奎堂(謙三郎)」の自刃の地は最終章・・・Ⅳでご紹介します。

 県道16号(旧 伊勢街道)を北上し”鷲家(わしか)”方面へ走ります。 センターラインのない左手(西側)は山、右手(東側)下方は川(多分:高見川)の典型的な山間道です。

 しばらく走ると、左手に何やら標識らしきものが目に入りました。 当初の調査では把握していませんでした。

 車を停車させ、標識を確認しました。 それが・・・・下記。


           <天誅組史跡及び島村 省吾 捕縛地>

 高知県安芸郡羽根村(現 室戸市)の出身。安政6年、15歳で京都に出て土佐藩邸に勤めていたが、天誅組に参加。省吾は参戦した土佐出身隊士の中では最年少だったそうです。

   9月24日の夜、鷲家口の決戦時鷲家口を切り抜けたが深傷を負った為、この先(左方向の山手)上方の小名峠(こなとうげ)手前に在った、清三郎の柴小屋で傷養生をしていたが、25日昼過ぎ紀州藩に捕われ、後に京都に送られ、文久4年2月16日、六角の獄舎で斬首された。 享年19歳。

 徒歩20分と記してあります。 私の足なら15分もあれば到着するでしょうが、まだまだ訪ねるところがありますので、断念しました。

 
 
  
 話のついでに京都の「六角獄舎跡」を紹介。
 
 
 

  さ~~、マストの「天誅組 終焉地」に向かいます。。。

 道なりに進みますと何やら右手に碑が見えました。 車をバックさせ下車。 在りました、天誅組終焉地です。

              <天誅組終焉地>

    ここまでの天誅組の足取り、組の状況を簡単に述べてみます。

  五條代官所を襲撃した頃が天誅組の絶頂期でしょか??。8・18 政変後は一転、幕府の追討を受ける羽目に・・・。 

 吉村は尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士を募兵し、960名を集める。

 追討令後、天誅組に恭順を約した高取藩は態度を一変した為、天誅組は高取城攻撃を決定し、25日、主将 中山 忠光率いる本隊が高取に向かう。

 高取藩は防備を固める。千人余の天誅組に対し、高取藩の兵力は約200名程度でしたが、地理の利を活かし天誅組に対して攻撃開始。
 
 所謂”寄せ集め”である天誅組は大混乱に陥るも、忠光には的確な指揮能力はなく、天誅組は潰走して五條へ退却する。

 26日夜半、吉村は決死隊を編成して夜襲を試みるも高取藩の斥候に遭遇し交戦、味方の誤射により吉村は重傷を負う。

 幕府軍は総攻撃を10日と定めて、総兵力約14,000名の諸藩に命じる。

 天誅組は善戦するも、14日、朝廷より忠光を逆賊とする令旨が発せられると、十津川郷士は忠光に退却を要請。天誅組の士気は一気に低下する。

 19日、進退窮まった忠光は遂に天誅組の解散を命じた。

 一方、吉村は一行から落伍してしまう。

 24日、三総裁の一人で負傷して失明していた松本奎堂(けいどう)は自刃し、もう一人の藤本鉄石も討ち死。

 一行から遅れていた吉村は27日に、鷲家谷で津藩兵に撃たれ、ここに三総裁とも戦死し、天誅組は壊滅しました。 

 
  
 
  「天誅組終焉の地碑」左手に橋があり、その奥が吉村虎太郎戦死地で墓碑がありました。

 
  

    吉村虎太郎 墓碑

  明治29年、天誅組33回忌を機に、吉村の墓は鷲家口の明治谷墓所(既アップ済み)に移されたそうです。

   

  東吉野村と高知県東津野村(吉村虎太郎 生誕地)とは姉妹村なんですね・・・・ 下記石碑に「東吉野村、東津野村 姉妹村盟約記念」と刻んでありました。

 虎太郎生家は以前紹介しましたので割愛します。
 
 

                  <吉村 虎太郎>
 吉村 虎太郎の説明は、下記、高知県梼原町にある「維新の群像」説明を御参照下さい。
 

  辞世碑
   
 
 虎太郎 原瘞(げんえい)處の碑
 筆者注・・・原瘞處とは:もともと、その亡骸を埋めていた処
  
  
  終焉の地を後に更に北上し突き当りを左折、R166沿いの「湯ノ谷墓所」他を目指します。

 次回「天誅組終焉の地を訪ねて:最終章」でご紹介。。。