神風連の変 | ナオピョンの幕末・維新史跡巡り

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       <神風連(しんぷうれん)の変を訪ねて>

 
2012年10月7日~8日に熊本史跡、田原坂を訪問した時の写真です。

  幕末・維新の史跡巡り紹介の時系列からしますといささか唐突ですが、明日は10月24日ですね、、、、ふっと思い出しました。

 先ず、”神風連の変”の読み方ですが”じんぷうれん”と読まれる方や呼称される方々がいらっしゃいますが、”しんぷうれん”が正しい。

 次にややこしいのが”神風連の”なのか”神風連の”なのかです。私なりに種々調査いたしました結果「変」が正しいとの結論に達しましたので、”変”を用います。 理由を述べると長くなりますので、割愛します。

  幕末から維新期に肥後・熊本細川藩での教育学派は大きく分けて次の三学派(実学党・学校党・勤王党)ですが、何れも「林 桜園(はやし おうえん)」が主宰した私塾「原道館(げんどうかん)」が起点です。そこから派生した勤王党の流をくむのが神風連の中心となる「敬神党」の面々です。

 林 桜園は終生独身で、明治三年に神風連のリーダー「太田黒 伴雄(おおたぐろ ともお」の家で没しています。
 
 この"変"は色んな面である意味特異だと思います。敬神党メンバーの多くは所謂神職の方ですし、戦いに際しての武具は戦国時代を彷彿とさせる鎧と刀槍のみだったとの事です。

 しかも、決起を決定するのに「宇気比(うけい)」と呼ばれる一種の”占い”をたて誓約・祈祷を行い、神託により挙兵に至った事です。 

 神風連の思想は平たく言えば神道をベースとした”こちこちの尊王・攘夷”でして、所謂洋式化は穢れと見做し一切認めないことです。

 脱刀令、散髪令が発布されるに伴い、彼らの「穢れを除かなければならない」との思いは頂点に達し、明治9年10月24日夜ついに暴発しましたが、時代遅れの武器、約170名と伝わる人員では熊本鎮台兵には抗いきれず翌25日早朝にはほぼ鎮圧されました。 この後秋月の乱、萩の乱と新政府への反乱が続きます。

 余談ですが「ラスト侍」と言う映画がありました。 巷間にモデルは”西南戦争”と言われる方々もいらっしゃる様ですが、神風連の変がモデルです。

 彼の「三島由紀夫」も彼らの思想に共鳴していたのは周知の事実ですし、林 桜園及び神風連の方々が眠る熊本市の「桜山神社」並びにその一角にある「神風連資料館」も訪れています。
 

                 <以下関連史跡の写真>
1.原道館跡・・・・熊本城近くの千葉城公園にあります(向かって左手の坂道を登りきるとNHK熊本放送局です)

 2.神風連の討ち入り場所跡です・・・熊本城内二の丸駐車場入り口東側にあります。
 

 3.太田黒 伴雄 終焉地跡です・・・討ち入り場所跡から西側に下った”法華坂”にあります。 重傷を負った太田黒はここに在った民家を借りて介錯を受けたそうです。
 
 
 

 4.桜山神社・・・・熊本市内から大津に向かう大津街道沿い、黒髪にあります。 神風連の方々の墓碑です。

 
4-2. 神風連資料館です