<箱館戦争の史跡を訪ねて Ⅲ> | ナオピョンの幕末・維新史跡巡り

ナオピョンの幕末・維新史跡巡り

 


全国の「幕末・維新史跡巡り」が趣味(道楽)です。
 

<箱館戦争の史跡を訪ねて Ⅲ>

             
{その・Ⅲ 8月13日}

            『乙部~江差 編』



1.乙部町

 R227で江差町の郊外で右折(北上)し、R229に入ります。 約5kmで「乙部町」町役場が右手にあります。

 役場を過ぎて、約200mの”緑町”交差点を左折し、漁港の方向に進みます。 浄化センター近くの空地(かなり広い)の道路沿いに碑がありました。

 この海上に、旧幕府軍と同数の8艦が大挙押しせました。 


                       


 説明文によりますと明治2年4月9日、「甲鉄」、「春日」、「朝陽」等8隻が集結し、乙部町民による旧幕府軍の情報提供を受け上陸したとの事です。





2.江差町

 乙部町を後に江差町に向かいます。 R229を戻り、道なりにR227へ入ります。

 江差までは海岸沿いを走りますが風光明媚な道路で別名「追分ソーランライン」と言うそうですが、道路際の草むら等には”マムシ注意”の標識が多々設置してあります。 注意のしようがないと思うんですが・・・。

 約20数キロを走り(お盆・平日のせいでしょうか、もともと車が少ないのでしょうか、皆さん平均70km/h 超、場所によっては90km/h で走行しています)、江差町に辿り着きました。
 
 寺社を三ケ所訪問しましたが、お盆の為どの寺社も人出が多く駐車するのに閉口しました。 


            **江差町で訪れた場所**

  〇 数が多いですので、ピンク色の訪問地のみ写真を貼り付けます。

  ① 江差法華寺・・・・・・・桧山奉行所の正門が移築してあります。
  ② 江差招魂社・・・・・・・官軍招魂碑、開陽丸記念碑 等々。
  ③ 開陽丸記念館・・・・・沈没した開陽丸から引き上げた品、復元した開陽丸(実物に忠実に復元)があります。



 


  ④ 開陽丸終焉地碑・・・・・江差追分会館の裏手に在りました。11月15日、ここのすぐ目の前の海岸で暴風雨の為座礁・沈没しました。

 
 それにしても、良く言われておりますが、この時点では旧幕軍は陸上(陸戦)では連勝を続けていたし、あえて江差沖に出て士気を鼓舞する必要性はない・・・と思うんですが???。 榎本さんのパフォーマンスでしょうか。


 戦略上虎の子の戦艦は温存し、何れ始まるであろう箱館湾での海戦に万全を期す戦術をたてておくべきだったと考えます。 その為に、弁天台場も増強していたんですから。


 何れ始まるとは?・・・何故なら、旧幕軍は兵力の追加・増強は先ず望めません。兵を失えばそれだけジリ貧です。新政府軍はいくらでも補充可能ですから、当然最後の決戦地は箱館になるのは予想できます。。



 得てして頭が”キレる・良い”とエリート意識にこり固まった人は、洋の東西を問わず似たようなミスを犯しますね。


 もう一つの要因は、燃料の石炭積載量の不足(と言うより石炭の補充が利かない)らしいです。

 機関が動いている間は何とか操船(コントロール)出来ますが、石炭切れで機関が停止したら、只の帆船です。

 しかも暴風雨ですから、なす術はなかったでしょうね。。。

 ”開陽”も不運な軍艦ですね。。 大阪から逃げ帰る時に、薩摩の軍船と小競り合いはあったらしいですが、戦艦としての戦いは皆無のまま、座礁・沈没ですから・・・・。

 碑がなかなか見つからず、追分会館で尋ねましたら、和服をお召しになった若い綺麗な女性がわざわざご案内して下さいました。




  ⑤ 嘆きの松・・・・・・・・・ 旧桧山奉行所跡(現:江差町郷土資料館)にあります。土方さんがここから開陽丸の沈没を眺め、悔しさに松に拳を打ち付けたと 伝わっているとの事。






 ⑥ 順正寺(江差東本願寺別院)・・・星 恂太郎率いる「額兵隊」の駐屯地です。


    江差町を後に、松前町に向かいます。 約80kmの距離です。

     別稿でご紹介します。