Naoさんの人生劇場 vol.2

国家試験に受かり、私が就職したのは製薬会社の営業でした。

周りの意見に流されて決断してしまったゆえ、動機も研修中になくなり盛岡転勤と言われ即辞めました。

お気づきの通り全然学んでいません。

今思えば少しやっておけばよかったと思います。

会社には申し訳ないことをしました。

その後は動機を失ってはいたものの資格を使うしかなく、調剤薬局に就職。
運良く良き先輩方に恵まれて、かわいがられ薬剤師としてのスキルを磨くことができました。

自分が行ったことで患者さんに喜んでもらえることはうれしかったです。


薬剤師として働いて6年位経った頃、人生を変えることが起こりました。

恋人との別離。

それと同時に日本では年齢的に結婚しなくてはいけないとされている年であり、今度こそ道をはずれてしまったという苦しみがありました。


深い深いトンネルに入ったようでした。


そこで自己防衛本能が発動したのか、

いつか外国で英語を学びたいという諦めていた夢を引っ張り出し、結婚資金として貯めていたお金を使ってオーストラリアに行きました。

そうでもしないと生きていくことは困難だったのです。

みんなから置いてけぼりにされる日本から逃げたかったのもあったと思います。


そこで孤独もありながらも、たくましく生きました。ここで松岡修造魂が培われました。
自然にも癒されました。


オーストラリアではしばらくオージーのロビンという女性と二匹のワンちゃんと暮らしていました。

ロビンはオーストラリアの自然と家族のたくさんの愛を受けて育った人。
海外を飛び回った色々な経験もあり、太陽のように明るく、温かくて、心地良いeasy goingで楽しくてユーモアのある素敵な女性でした。

その後の人生で辛いときロビンの笑顔に会いたいと思ったことが何度もありました。

それくらい彼女の笑顔は人に元気を与えるものだったのです。

私もNaoさんの笑顔に会いたいと思ってもらえるような女性になりたいと思います。

そんな目標とする女性との出会いがありました。


サーフィンをしたり、友達もできて日本語を話す方が頭を使うようになってきた頃にアクシデントが起きます。


突然、母から弟がおかしいので帰ってきてほしいと連絡がありその二日後に帰国しました。


帰ると心の病に苦しむ弟がいました。看病生活は過酷でした。


自分を保つために、心が生き延びるためにオーストラリアに行ったのにいつ帰れるかもわからず、夜にはどうしようもない絶望にかられました。

心の支えがなくなってしまった。


私の人生はどうなるの?と。


その後、なんとか状況が一段落してオーストラリアに戻ることができましたが、結婚式に出席するため2ヶ月くらいしたらまた帰国せねばならず、ある決心をしました。


セカンドワーキングホリデービザを取ろうと。

そのビザの制度はオーストラリアにしかありませんでした。

切れ切れになってしまった海外生活だったので、満足できなかったのです。

年齢的に非常にギリギリでしたが、3ヶ月住み込みで働きそのビザを取りました。

また語学学校に行きたかったので一旦お金を貯めるため日本で出稼ぎすることを決意し、福島の薬局で単身働かせていただきました。

職場の方は皆さん良い方で恵まれました。

でも夜は寂しくてけっこう泣いていました。


オーストラリアに再度渡航する1ヶ月前の3/11に東日本大震災が起きました。その3月末で契約が終わる予定でした。


私は中通りに住んでいたので津波は免れました。住んでいたレオパレスは停電も断水もせず、一人で見知らぬ土地に暮らしていたので助かりました。

同時多発テロの時、たまたまNYにいたものの助かり父には『.11』の女と言われますが、加護を感じています。


当時、心は不安と皆様の心痛を感じ非常に辛いものでした。

そんな中福島の方々は本当に本当に心が優しくて、強く、忍耐力があって素晴らしいとすごく感じたのを覚えています。たくさん助けられました。

福島の方々、私は好きです。

葛藤の末に一旦実家に帰りましたが、また福島に戻り渡航の一週前まで働きました。


心身ともに疲れながらも2011年4月予定通りオーストラリアに再び戻りました。


放射能の件で成田→関空で飛行機を強制的に乗り換えなくてはなりませんでしたが、無事に入国することができました。


つづく