4月30日、只見線ビューポイントで列車撮影カメラをした後、

大内宿に向かいました。

只見線ビューポイント道の駅 尾瀬街道みしま宿大内宿は全く別方向。

どちらも会津若松中心部より離れた山の中。

みしま宿は西で奥会津と言われる場所、大内宿は南の山間部。

車で約2時間程で大内宿に到着しました。

江戸時代に会津若松城下日光を結ぶ会津西街道の宿場町として

整備された大内宿

明治以降、鉄道や国道が大きく迂回したおかげで、

昔ながらの茅葺き屋根の民家が残っています。

言い方を変えると、明治16年に会津三方道路国道(現在の国道118・121号線)が
開通したことにより、時代に取り残されてしまう事態に悲しい
しかしそれが幸いし、江戸時代の町並みが現代に残っていると。
 
また、ガイドブックによると、1967年に会津茅職人の調査に訪れた
東京の美大生が保存の必要性を村に強く訴えたとあります。
 

江戸時代の形態を色濃く残す町並みとして、昭和56年に

重要伝統的建造物群保存地区として国の選定を受けました。 

どこの家の前もお花チューリップ赤が綺麗に植えられていました。

 

こちらではねぎを箸代わりにして食べるねぎそば(正確には高遠そば
名物らしく、そのお店がたくさんありましたが、夫が嫌がりました。
確かに生のねぎは食べたくない。
(残すのも申し訳ない)

食べていた人のテーブルをズームで撮影。

 
一番人気の三澤屋というお店にて。

 

我々はくるみそばを売りにしているこちらのお店でお昼にしました。
金太郎そば山本屋

こちらは歴史的建造物とのこと。

 

夫は冷たいのを、私は温かいくるみそばを。

 

 

テキトーに座った席の眼の前に何やら書いてある? 
 戊辰戦争時の刀傷らしい。
 
上矢印わかるかな?
 
ひょっとして左上の欠けてるとこもそう?
 
こちら大内宿戊辰戦争の戦場となったようです。
特に宿場の北方、大内峠では激戦が繰り広げられたのだとか。
大内宿に滞在していた会津兵が撤退する際、敵兵の食糧供給地に
ならぬようにと、この集落に火を放とうメラメラとしたらしいのですが、
このお店(家)の遠縁になる阿部大五郎という人物が
命を張って防いだのだとか。
阿部大五郎さんがいなければ、この観光地はなかったのですね。
 
と、テーブルの上にこの店(家)の歴史が書かれた資料があったので
そこから引用させていただきました。
 
集落の一番奥が高台になっていて、そこが展望台になってました。
この急な階段の上なのですが、石段が古く注意との看板があるので、
この左手にあるの字形になった緩い上り坂を利用。
 
子安観音堂
安産や子の成長を守護する観音菩薩像が中に安置されているとのこと。
 
展望台から見た大内宿
なんとここに来た時に夫に電話が。
特養の空き待ちをしている義父の順番がきたとのこと。
一気に現実に引き戻されました泣き笑い

 

展望台に近い(突き当りに近い)あるお宅では

軒下に小さな俵上の物が吊り下げられていました。

マメコバチハチが繁殖の時期を迎えているので、

優しく見守って、との張り紙が。

説明書きもありマメコバチは4月上旬になると花コスモスから花コスモスへと飛び回り

花粉を集め、竹や葦の筒の中に餌となる花粉団子を運んで産卵するとのこと。

この習性を利用し、リンゴリンゴ、桃、梨などの花の受粉させるそう。

マメコバチ働き者で、ミツバチ何倍もの働き(83倍と!をし、

ここ大内宿は数少ないマメコバチの生息地なのだとか。

針を持たないので、人を刺す事もないそうです。

 

そんな健気なマメコバチさん、ブンブンハチ飛び回ってるのは
見えてるのに、写真には上手く撮れず。
葦の中に入ろうとするのを、何とか撮りましたが滝汗

大内宿街並み展示館(入りませんでしたが)

 
散策中、大粒の雨汗が一瞬降ってきましたが、すぐやんでよかったです。

大内宿、素敵な所でした。

 

 

この後は飯盛山へ。