■15歳で水揚げされて


花井お梅(はないおうめ)は、1863年(元治元年)~1916年(大正5年)12月13日)に活躍した新橋の芸者さんです。

24歳の時に、犯した殺人事件が川口松太郎の「明治一代女」など、いろいろな演芸に脚色され、演じられたため悪女、毒婦として有名になった人です。
本名は花井ムメと言います。佐倉藩(千葉県)の下級武士・専之助の娘として生まれましたが、当時の下級武士は貧困な生活でしたから小さい頃に養女として出されるのが普通でした。お梅も9歳のときに3両で置屋に売られました。当時は、2両もあれば1年くらい生活できた時代ですから3両は大金でした。
しばらくは置屋で女中みたくして生活してましたが、すぐに踊りや三味線を学んで芸妓の修行に入りました。

15歳のとき柳橋の芸妓『小秀』となり水揚げされてます。水揚げの平均年齢は13歳くらいが普通でしたから、少し遅い年齢だったかもしれません。水揚げって花柳界では、お金持ちの旦那衆がセリで大金を払い『初夜権』を手に入れることです。旦那と呼ばれますが、その後も女の子を一生世話することになります。
別な世界ですが、陰間(男色)の場合は童貞を失うことを「水下げ」と言うらしいです。

[公式]新説あぶな絵伝

18歳のときに新橋へ移って『秀吉』を名乗っていたそうです。豊臣秀吉のように出世しようとしたためでしょうか。

晩年の芸名も『秀之助』と名乗っていましたから、よっぽど秀吉が好きだったのだと思います。
美貌で気っぷがよかったので、お梅をひいきにする男の子も多かったそうです。ですが反面、勝ち気で酒癖が悪く切れやすかったため、客とよく喧嘩するような難しい子でした。
しかし、そういう女も面白いと世話する男がいたのです。第百三十三国立銀行(滋賀銀行の前身)の河村伝衛という頭取でした。金満家でしたからお梅には湯水のようにして金品を与えていました。
花柳界には『旦那様制度』というのがあって、好みの芸妓を見つけると水揚を行いその後生涯に渡り金品の世話をするパトロン制度があります。芸妓の若手見習いから一人前になるまでにかかる多額の費用や着物から持ち物、装飾品や生活費まで、今のお金で数百万円~数億円を負担します。
1887年5月に浜町河岸で待合茶屋『酔月楼』を開業するときも、川村頭取は資金をポンと出してくれました。このとき、自分を花柳界に売った父親の専之助を、営業鑑札の名義人にしています。憎くくても親は親だったのでしょうか。しかし、お梅は旦那からは大層世話を受けながらも、一方ではいつかお座敷に遊びに来た役者の四代目・沢村源之助にぞっこんになり、これがきっかけで役者遊び
に耽けていきました。(次回に続く)