■寂しい才女の夜
下田歌子(1854~1936)まで活躍した岐阜県出身の歌人です。18才(1872年)の時に上京して、女官として宮中に仕出しました。小さい頃から和歌のお勉強をしていて、その才能を皇后に認められ宮中で和歌を教えるようになりました。25才(1879年)の時に宮中を寿退社で辞めて、剣客『下田猛雄』と結婚しました。しかし、結婚で知った女の喜びに目覚めると、狂ったように毎晩、夫に求めたそうです。
夫はこの激しい営みが原因で身体が衰弱して、ついには死んでしまいます。歌子は女官時代に閨房の技術を学んだと言われ、床上手だったそうですが、それが仇となってしまったのでした。
未亡人になっても、男には不自由しなかったみたいです。歌子は当時としては美人だったので男好きの顔立ち、若さから、沢山の男の子から誘われていたようです。それに、それだけの床上手の子が一人の夜は寂しかったのではと思います。
当時、明治政府は、女性の教育に力を入れていて歌子も29才(1883)の時に、私塾を開いて士族の娘たちに礼儀作法や古典の講義を教えていたそうです。政府の推薦で『華族女学校』の教授を命じられたのは、それからしばらくしてのことです。
またこの年、女子教育の視察のために、2年間欧米に留学もしました。帰国後『帝国婦人協会』を組織し、その初代会長にも就任しました。
こうした華々しい活躍は、伊藤博文との不倫な関係があったからと言われています。伊藤は明治天皇にもほどほどにと注意されたくらいの艶福家で、毎晩のように芸者遊びをしていたそうです。お妾さんもたくさんいました。
地方に出張すれば、地元の実力者の娘や権力者と関係ある芸者とよく遊んだそうですから、歌子もその一人だったと考えられます。
30年前くらいに発刊された『花の嵐』(志茂田景樹著書)によれば、歌子は従来の日本の女の子と違う考えを持っていた人で『社会を変えるのは女性である。そのためには女性が変わらなくてはならない』を信念に、積極的に行動した人だったようです。
今で言う割り切った男女関係も平気な人でした。野心家の歌子が伊藤総理に色々お願いしたのではないでしょうか。学校の設立も、留学も、協会設立も伊藤総理の力なくしては実現しなかったのではと考えます。それに、伊藤博文は気前がよい人で『よろしい御前』ともあだ名されるくらい、寝物語の女たちの願いごとを叶えてあげる人だったそうです。(次回に続く)