デュファイ祭
今年は誕生日の8月ではなく、命日月の11月となりました。
一部は4組の方々によるグレゴリオ聖歌とモテットやヒムヌスなど宗教曲
二部は甘美な多声シャンソン
を中世フィドル、中世ハープ、と二人の歌手で演奏します。
余談ですが、このアンサンブルのヒミツの名前は、
‘’二人のギヨーム‘’と言います。笑
理由は、、?
偉大なギヨーム・ド・マショーとギヨーム・デュファイばかりを愛を持って演奏しているからです♡
ちなみに私は、一人の作家に集中して読書するように、宇宙を感じてしまった音楽は同じ作曲家の作品をもっと知りたくなってしまうのです。
和声の母?(個人の意見です)とも言えるような現代の和声感覚の原点を感じさせる単純さもありながら、躍動するリズム、甘美な旋律により、時に天国的な美しさで包んでくれるのです。
Mon chier amy この曲はカルロ・マラテスタの弟の弔いの歌ではないかと言われています。「名家の出身」などキーワードやキーノート♪♪♪を発見することができます。
プログラムより
ベルギー、ブルュッセル近郊のベールセルで生まれたと考えられているギヨーム・デュファイGuillaume Dufay (1397-1474) はガンブレ司教座聖堂の少年聖歌隊として歌い、そこで音楽を学びました。当時の司教で学者、音楽の庇護者であるピエール・ダイイ Pierre d’Ailly (1350-1420) に連れられ、コンスタンツ公会議に行ったのではないかと思われます。1418年まで続いた会議でやっと異例の三教皇を廃位してマルティヌス5世が即位することとなりましたが、この公会議に参加していた北イタリアのリミニの領主マラテステ家に出会い、その宮廷で仕えることになりました。その後教皇の聖歌隊歌手となり、1435年に去るまでカンブレ、アラス、リエージュ、トゥルネー、バイユーなどの司教座からやってきた選りすぐりの歌手達と共に歌うことになります。
また、フランス王国、ミラノ公国、そして当時文化的にも繁栄していたブルゴーニュ公国に近いサヴォア公国の音楽家としても活躍しました。そしてブルゴーニュ公フィリップ・ル・ボンに仕えていたジル・バンショワにも出会いました。バンショワの作品多くはトゥルバドゥール以来の宮廷風恋愛を歌うシャンソンでしたが、デュファイはより様々なジャンルの独自の多声シャンソンをつくりました。同時代に才能を発揮して認められた2人を描いた細密画はよく知られていますが、彼が亡くなったときに書かれたと思われる「酷い痛手で勝ち誇りながら」"En triumphant de Cruel Dueil" に、バンショワの代表的な傑作のタイトルを2つをオマージュとして歌詞に刻んでいます。
さて、サヴォアを離れて再び教皇エウギウスの聖歌隊に入り、三十代からは最後まで名誉のある筆頭歌手を務めました。今もその姿を拝めるフィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式ではデュファイのモテトゥス「薔薇の花が先ごろ」"Nuper rosarum flores" が華やかに演奏されました。実はこの曲は大聖堂の建物を念頭にソロモンの神殿の数比率と同じようにイソリズムを使って作曲されていおり、中世本来の音楽の観念である数学的な仕組みを取り込むことで、教会の偉大さをみごとに表現するという天才ぶりを発揮しています。
サヴォア滞在中、ヨーロッパ中を震撼とさせた出来事がありました。1453年5月29日、一千年の歴史をもつビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルが、オスマントルコの攻撃をうけて陥落したのです。ローマ教皇ニコラウス5世はブルゴーニュ公フィリップに使者を送り、新十字軍の結成を求めました。彼はリル城にヨーロッパの諸侯を集めて大祝典を開催し、コンスタンティノープルの陥落を悼む歌など演奏されたと言われています。結婚祝いの曲も捧げている、かつて仕えていたクレオフェ・マラテスタの嫁ぎ先であるコンスタンティープル宮廷の崩壊は、デュファイにとってもとりわけ心を痛めたことでしょう。残された書簡から1455年に4曲の哀歌を作ったらしいのですが、残念ながら今日演奏する一曲だけしか残っていません。旧約聖書の『エレミアの哀歌』の一部をテノールに、上声部 Cantusはフランス語でコンスタンティノープル陥落を嘆き、哀愁溢れる美しすぎる名曲となっています。
「歌い踊り晴れやかに楽しもう!」と歌う、ワイン好きで陽気な性格を思わせるデュファイですが、今日のプログラムには人々の哀しみに寄り添う友のような存在を感じとることができます。デュファイはヨーロッパ各地での様々な出会いや影響を受け、それらのエッセンスを取り入れ、緻密で優美な独自の様式を創り上げた偉大な作曲家であると思います。(参考資料 今谷和徳『ルネサンスの音楽家達』)


