場所:

おしゃれなカフェ


登場人物:

A子・知的なボブヘア、白ブラウスにパンツスタイル。現実をしっかり生きる現実派。


B子・ふんわりニュアンスヘア、シアー素材のトップス。A子の話にノリ良く共感する聞き上手。





A子:「ねえ聞いてよー。大島奈保美さんのブログをずっと読んでるんだけど、もうツッコミどころ満載でさ、読むたびにモヤモヤしちゃうんだよね。」


B子:「え、大島奈保美さん? どんなブログ書いてるの?」


A子:「本人はね、よくブログで『これからは自分軸で生きる!』とかドヤ顔で書いてるの。

でもさ、私から見たら、やってることが『超・他人軸』なわけ。」


B子:「えっ、どういうこと? 自分軸なのに他人軸?」


A子:「そうなの! だってブログの中でいっつも『人の言葉』ばっかり書いてるんだよ? 

息子の言葉とか友達の言葉だけじゃなくて、内藤剛志さんや小泉今日子さんが言ってた言葉を引っ張ってきては、『金言です!』『ホントその通り!』って大絶賛。

あげくの果てには、ブログの読者コメントとか、カフェで隣の席の人が話してた内容まで『全く同感👍』とか書いて引用してるの。

いや、あなたのオリジナルの意見はどこにあるの?って思わない?」


B子:「あはは、それはウケる(笑)。他人の言葉を集めるのが趣味みたいになってんじゃん!」


A子:「でしょ? しかも、その『自分軸で生きる』ってテーマ自体、工藤静香さんの言葉の受け売りらしいからね。

スタートからして人のパクリじゃん。

結局、自分の芯が何にもないから、その時々に出会った『なんか良い感じの言葉』にフラフラ流されてるだけなんだよ。まさにその場しのぎの格好つけ!


B子:「あ〜、なんか『素敵な言葉をキャッチできちゃう、丁寧な暮らしをしてる私』をアピールしたいだけって感じがするね。」


A子:「そうなの! で、私が一番『はぁ?』ってイライラするのが、時々ポエム調になってさ、『時々、自分が分からなくなる…自分の立ち位置が、向いてる方向が見えなくなる』とか言い出すのよ。」


B子:「なにそれ、悲劇のヒロイン気取り?笑い泣き


A子:「そう! 自分の立ち位置なんて小賢しいこと考えながら生きてる人、普通いないから! 

みんな仕事したり、家事したり、育児や介護したり、毎日の生活を回すだけで一生懸命じゃん。

そんなこと考えてる余裕なんか1秒もないよね。」


B子:「確かに。毎日忙しすぎて、立ち位置で迷子になってる暇ないわ(笑)。」


A子:「でね、もっと言うとさ……彼女、旦那さんが亡くなって5年も経つのに、未だに納骨すらしてないんだよ。」


B子:「えっ!? 5年!? 四十九日とか一周忌とかとっくに過ぎてるよね? それってどういうこと?」


A子:「ブログでは『寂しいからまだ納骨してない、もう少し側にいてほしい』みたいなことを言ってるんだけどさ……。

じゃあ家で一生懸命供養してるかっていうと、お供え物は賞味期限が切れていたり、お花はドライフラワーのように枯れたりして、供養の様子が見えないのよ。

お盆の行事とかも何もやってないの。」


B子:「えぇ……。それ、『寂しいから』って理由になってなくない? 本当に寂しくて大切に思ってるなら、お盆の準備したり好物をお供えしたり、もっと心を込めてお世話するよね?」


A子:「そうなの! だから『寂しくて手放せない健気な私』っていうポーズをここでも取ってるだけで、結局はただ面倒くさいのか、向き合う気がないのか……。形だけの『寂しいアピール』にしか見えなくて本当に嫌なんだよね。」


B子:「うわ、それはいよいよ薄っぺらいね……。亡くなった旦那さんまで『悲劇のヒロインの小道具』にしてるみたいで、聞いててちょっと引いちゃう。」


A子:「結局この人、仕事もしてない、家事も介護もしてないから、圧倒的に「暇」なんだと思う。

 暇を持て余してるから、安全な部屋の中で『悩める繊細な私ごっこ』をして遊んでるだけ。

現実に追われて必死に生きてる私たちからしたら、そんな甘えたポエムや供養もしない『寂しいアピール』を見せられたら、大嫌いになるの当たり前だと思わない?」


B子:「間違いないわ。A子がイライラするの、超納得。それってさ、A子が毎日を一生懸命マジメに、周りの人や現実を大事にして生きてるからこそ、彼女の『中身のなさ』と『甘え』が透けて見えちゃって許せないんだよ。」


A子:「そうなの! あ〜、B子に話したら、本当にスッキリしたわ!」


B子:「いつでも愚痴、聞くよ〜! よし、とりあえず私たちは現実を一生懸命生きるために、この美味しいパフェ食べよ!」






大島奈保美氏のブログに見る「言葉」と「生き方」の矛盾について
――「自分軸」というアピールと、他人に流される実態の分析――
【レポートの要旨】
本レポートでは、タレント・ブロガーの大島奈保美氏がブログで発信する「自分軸で生きる」という言葉と、実際の行動のズレについて分析する。本人が「自分の基準で生きている」と主張しながらも、なぜ読者には「薄っぺらく、その場しのぎの格好つけ」に見えてしまうのか。インターネット上の批評掲示板に集まる読者たちの鋭い指摘や、彼女の生活実態の視点からその理由を明らかにする。
1. はじめに
ブログやSNSでは、「他人の目を気にせず、自分らしく生きる(自分軸)」というテーマがよく語られます。
大島奈保美氏もその一人です。
しかし、彼女の発信を詳しく見ていくと、言っていること(自分軸)と、やっていること(他人軸)の間に大きなズレがあります。
本レポートでは、彼女のブログの具体例と、それを観察するネット掲示板の読者たちの指摘を交えながら、彼女の発信が与える違和感の正体を論理的に説明します。
2. 大島氏の「自分軸」が偽物に見える3つの理由
(1) 自分の言葉がなく、すべて「他人の借り物」である
自分軸で生きている人は、自分の心から湧き出た言葉で語ります。しかし、大島氏は「他人の言葉」を借りないと自分を表現できません。
  • 芸能人の言葉への便乗:内藤剛志氏や小泉今日子氏の言葉を「金言」と呼び、「本当にその通り」と乗っかります。これは自分の意見ではなく、有名人の言葉に自分を当てはめて安心しているだけです。
  • 誰にでも同調する:カフェの隣の席の人の会話や、ブログの読者コメントにも「全く同感」と激しく同意します。
  • 言葉のパクリ:そもそも彼女が掲げる「自分軸」というテーマ自体が工藤静香さんの受け売りであり、生き方のスタートから他人に依存しています。
(2) 信念がないため、いつも「フラフラ」している
自分のハッキリした意見(芯)がないため、その時々に出会った「なんか良い感じの言葉」に全方位で賛成してしまいます。
そのため、発言の基準がコロコロ変わり、読者には「一貫性がなく、いつもフラフラ漂っている」ように映ります。
(3) 「悩んでいる素敵な私」というその場しのぎの格好つけ
ブログでは「時々、自分が分からなくなる…自分の立ち位置が見えなくなる…」といった、人生に深く悩んでいるようなポエムをよく書きます。
しかし、その言葉をきっかけに自分の行動や生活を変えるわけではありません。
言葉に感動したポーズを取るだけで中身が空っぽなため、読者からは「深く人生を考えている、繊細で素敵な自分」を演出するための、「その場しのぎの格好つけ」だと見抜かれてしまいます。
3. 「口先だけの供養」にみる言動の一致しない姿勢
大島氏の「格好つけ」の姿勢は、亡くなった旦那さんの供養の仕方にも現れています。
旦那さんが亡くなって5年も経つのに、「寂しくて手放せないから」という理由で未だに納骨をしていません。
しかし、ブログを見る限り、家で一生懸命お供えをしたりお線香をあげたりしている様子はなく、お盆の行事なども何も行っていません。 
本当に寂しくて大切に思っているなら、日々の供養やお盆の準備を心を込めて行うはずです。これを行わないということは、「寂しくて納骨できない健気な私」という悲劇のヒロインのポーズを取るために、亡くなった旦那さんを利用していると言わざるを得ず、これが読者に強い嫌悪感を与えています。
4. ネット掲示板の読者が指摘する「暇人ゆえの時間の無駄」
大島氏の動向をウォッチしているインターネット上の批評掲示板では、現実を生きる読者たちから極めて本質を突いた指摘がなされています。
ある読者は、彼女の「自分の立ち位置が見えなくなる」というポエムに対し、「下手の考え休むに似たり」ということわざを用いて批判しました。
普通の人は、仕事、家事、育児、介護、ボランティアなど、社会や家庭のなかでたくさんの「役割」を持っています。日々の生活を回し、現実を生きるだけで一生懸命であり、「自分の立ち位置が…」などとオシャレに悩んでいる時間はありません。
大島氏がこのようなポエムを書いていられるのは、引き受けている仕事や責任が一切なく、圧倒的に「暇」だからです。
何も行動を起こさないまま安全な部屋の中でグルグルと悩み続けている状態は、まさに「ただ時間を無駄にしてサボって休んでいるのと同じ(=下手の考え休むに似たり)」です。
何の苦労も責任もない安全な場所から、言葉だけで「人生の迷い」や「自分軸」を気取っている姿は、現実に一生懸命生きている人々に対する冒涜のように感じられます。
5. 結論
大島奈保美氏のブログに見る「自分軸」とは、自分を素敵に見せるための飾りに過ぎず、その本質は他人の言葉に依存し続ける「他人軸」です。また、彼女の言う実存的な悩みや寂しさは、役割を持たない「暇」から生まれた退屈を、もっともらしい言葉でデコレーションした演出に過ぎません。
インターネット掲示板の読者たちが彼女の発信に対して抱く「フラフラして薄っぺらくて大嫌いだ」という批判的な視点は、感情的な悪口などではなく、「地に足をつけて現実を一生懸命生きている生活者」としての、極めて正当で論理的な拒絶反応であると結論づけられます。