今、手元にある本は文庫サイズで数冊あり、それを一つずつサッと流し思い出して。
最初は「論証のルールブック」の起点から。
【論証のルールブック】
この本は、ルールブックなんだって。
言い換えると?
・簡潔な手引きで、ルールを調べるときに手元の資料として、整合性を確認できる。
●必要不可欠な重要ポイントだけ書かれている。(テキスト)
いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どうした
ルールを調べるときに、必要で欠けてはいけない(条件=)重要なポイントを押さえている。
つまり、簡潔に必要な条件だけ書かれている、手元に置いておいて引ける本だ。
●この本は論証するためのテキストではなくルールブックである。(テキスト)
ルールブックだから、論証をするためのテキストではないのだ。
ここまでの思考を整理すると、論証のルールブックという本は、必要不可欠な条件という重要ポイントだけを書き連ねた手引きだ。だから、内容はそぎ落とされて不純物のない条件の集まりである。
これを本では、「簡潔な手引き」という。
では逆行して、「簡潔な手引き」とは何かを問うて解く。
簡潔な手引きとは、何が簡潔に書かれていて、何を手元から引くのかということから解くと、
簡潔に書かれているのは重要なポイントでここでは条件であり、手引きとは手元にあるところから必要な事項を引くので、
ここでは、手引きを引くとは、重要な条件を引き当てることだろう。
そうすると、簡潔な手引きとは、簡単に必要なポイントを引き当てられる手元の本だろう。
では、次に行こう。
いや、その前に、さらにこれを表す言葉を「簡にして要を得ている」というのだという。
●良い論証をまとめあげるためのルールだ(テキスト)
これはどういう意味だろう。良い論証とは、まだ分からない。しかし、ルールがあるのは、まとめあげるためで、ルールを守ってまとめあげた論理的な証明が良い論証ということだろう。
そうすると、良い論証とは、ルールを守ってまとめられて論理的な証明ということになるのだろう。
【読書について】
思索という見出しが1ページ目で始まる。
これが私としては、自らの時間の流れの中で、ところどころで引っかかって気になっていたことなので、記しておく必要がある。
思索とは何か。それはまだとして、説明に入る。
●数量がいかに豊かでも、整理がついていなければ蔵書の効用はおぼつかなく、数量は乏しくても整理の完璧な蔵書であればすぐれた効果をおさめる。(テキスト)
⇒そうだと思う。この数年間で本を何冊も読んできたが使える状態のものがない。一方で、今、この1冊を整理している。これで完璧に自分の脳が働く状態のときの、頭の中の川の流れに沿うことがあれば、自らの発生するものとなり、思考を模索するさいに見当てられる到達点として、または中継点としての思索事項の一つの答えとなるだろう。
この1冊を完璧にすることができれば、何かが変わると思う。
思索というのだから、思うことを捜すのだろう。
この本では、整理の完璧な蔵書があれば(条件)効果をおさめる(効果)とある。
つまり、蔵書を完璧に整理する(条件)、そうすれば何かしらの効果が得られるというのだ。
どのような効果を得られるのだろう。何が何になるのか?疑問点を1点置かれていった。
●いかに多量にかき集めても、自分で考えぬいた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考え抜いた知識であればその価値ははるかに高い。(テキスト)
⇒これも言いたいことは同じだ。知識を大量にかき集めても、「自分で考えぬいた知識」ではなければ、それに価値はない。
裏を返せば、「自分で考えぬいていない知識」に価値はない。
●何か一つのことを知り、一つの真理をものにするといっても、それを他のさまざまな知識や真理と結合し比較する必要があり、この手続きを経て初めて、自分自身の知識が完全な意味で獲得され、その知識を自由に駆使することができるからである。(テキスト)
⇒一つのことを知る、それについて真理を追求する、追求した真理をものにする。この追求してつかんだ真理というものを、別の知識や真理と結合する。
「追求してつかんだ真理+(知識∨真理)」または「追求してつかんだ真理<(知識∨真理)」
⇒この手続きを経る、それで初めて自分自身の知識として完全に得ることができる。その知識を自由に使いこなせることができれば蔵書を完璧に整理できたといえるだろう。
●我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。(テキスト)
⇒裏を返せば、自分で「知っている」ことがある。その数個でしか、考えの川を流すことができない。
●知るためには学ぶべきである。(テキスト)
⇒裏を返せば、学ぶとは、「知っている」ことを増やすということだ。
●だが知るといっても真の意味で知られるのは、ただすでに考えぬかれたことだけである。(テキスト)
⇒ただ「知る」というのと、真の意味で「知る」のは違う。真の意味で「知っている」ということは、すでに自分で考え抜いたから「知っている」というのだ。
ここまでを振り返ってみる
・「自分で考えぬいていない」知識に価値ない。
・一つのことを「知っている」状態にして、一つの真理(もの)をつかむ。
・さらにその「真理」に別の知識や真理を繋げる、比べる。
・その手続きを経て、完全に自分の知識になる。
・その知識を自由に使いこなせたら蔵書を完璧に整理できたといえる。
・では、「知っている」とはどういう状態か?
・自分で学んで得た「知っている」を増やす
・真の意味で「知っている」とは「自分で考え抜かれたこと」だ
さらにまとめると、
・一つのことを「考え抜かれた価値あるもの」にして、一つの真の理を所有する。
・さらに「真の理」を別の「考え抜かれた価値あるもの」や「真の理」につなげる∨比較する。
⇒この手続きで、「自分の知識」に成る。
「自分の知識」を自由に使いこなせたら、「蔵書」を完璧に整理できたといえる。
⇒蔵書を完璧に整理した=自分の知識にして自由に使いこなせる
さらに圧縮する
・「考え抜かれたもの」で、真の理を手に入れる。
・真の理に、別の「考え抜かれたもの」や「真の理」をつなげる、比較する。
・この2STEPで、「自分の知識」に成ったものを使いこなす
文章にすると
・考え抜かれたもので真の理を手にして、その真の理にもう1つの考え抜かれたものや真の理をつなげる。つながらなけば比較する。これで自分で使いこなせれば、自分のものの1つといえる。
略すと
・考え抜いたもので導いた真の理と、別の考え抜いたものか真の理をつなげるが、別個なら比べてみて、その結果が自分のものになれば、このものを知識とよぶ。
逆からいくと
・知識は、何らかの結果で、その結果は比べられたものや繋げられたもので、それは真の理と真の理や考え抜かれたものでくっついたり並べて見比べられていたもので、そうやって考え抜かれたものである。