井村和清さんの『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』には、患者であることの苦しみが3つあると書いてあります。
・自分の病気が治る見込みのない苦しみ
・お金がない苦しみ
・自分の病気を案じてくれる人のいない苦しみ
患者さんと対峙するとき、とりわけ急性期のベッドサイドではこの記述が心に浮かびます。
病気が治らない苦しみ、、、昨日まで動いていた手や足が動かない、自分でできていたことができない、、、社会や家庭での役割を失うことになれば、これはとても大きなidentityの危機のはずです。
仕事は?お金は?こんな自分を家族はどう思うだろうか?
何もかもこれからどうすればいいのか???
急性発症の疾患による障害が、短期間に起きた場合の心理的受容の難しさを理解しようとするとき、カフカの『変身』を思い出してしまいます。あれは随分と不条理な話だけれど、何にも悪いことをしていないのに、ある日突然、あなたは難病ですと言われることもは、同じくらい不条理なことでしょう。
身体の病気によって心まで病んでしまうことは、自然な心の反応だと思います。
進行性の疾患では、まだ起きてもいない変化を予想して悩み苦しんだり、日々起きている変化を見て見ぬふりをしたり、ということが起こります。患者さん本人だけでなく家族にも起こります。
どちらの場合も難しい問題です。
いわゆる難病では、診断時に心理的なケアも考えて時間をかけて説明します。
無為の時間を過ごして欲しくないからです。
しかしその後も、
どうしてそんな病気になったのか、今まで元気だったのに
どうしたら治るのか
そういう質問を同じ人から何度も何度も尋ねられることはよくあります。
反対に何も尋ねない人もいます。
心が病むと注意力や理解力の低下が起きたり、無意識のうちに現実から目を背けてしまう人がいることを理解する必要があります。
思い悩み、苦しい表情をしたままリハビリ転院した患者さんが、自宅退院してから少し吹っ切れたような様子で外来に来てくれる時、患者さんの心の回復力やリハビリに関わってくれた人達に、「ありがとう、ありがとう」と思います。