今朝は8時過ぎに起きた。

寝坊だ!

寝ていたときに夢を見ていたようで、調子が悪かった。

でも、すぐに朝ごはんを作らないと、毎週ダーリンが受けている

整体の治療に遅れてしまう。

のっそりと起き上がって、しぶしぶ朝ごはんを作る。

なるべく手間のかからないものをと思い、

ダーリンにはごはん、味噌汁、ソーセージとサラダを。

私は食欲がなかったので、ごはんとソーセージだけ。

あとは、お腹が痛かったので、薬と一緒に鎮痛剤も飲んだ。

土曜日の朝はいつも「ウェークアップ」を見ている。

先日韓国の小さな島が北朝鮮によって砲撃を受けたという

ニュースにはショックを受けた。

北朝鮮は何をしでかすかわからない怖い国だ。

いずれ韓国や日本を含む他の国々と戦争になるのではないか、

とひやひやしている。

戦争なんて絶対して欲しくない、と誰もが思っていることだろう。

これだけ豊かになった生活を送っている私たちは

戦争になった様子など想像がつかない。



戦争といえば、高校生のときに、2年間、当時イラン・イラク戦争を

していたイランに単身赴任することがあった。

赴任が決まったとき、父は母にも相談することなく、話が決まったあとに

家族みんなの席で、「イランに行ってくる」と言った。

当時の私は戦時下に行くということは命の危険があることは

分かっていたので、「行かないで」と言って泣いたのを覚えている。



それからすぐに父はイランに行き、我が家は嵐の中にいるような

生活を送ることになった。

ともかく携帯もFAXもなかった当時は、連絡する手段がなかったのだ。

戦時下では電話もできない。

だから、父との連絡は手紙だけで、それをイランに行く出張者に託し、

その人が帰国するときに父の手紙を持って帰ってくれるという形で、

2年間連絡を取っていた。

その手紙なのだが、いつも書いてあるのが、「ちゃんと勉強をしなさい。

お母さんの手伝いをしなさい。」などだった。

だけど、そのときの私は家庭がいつも父の命を心配しなければならない

緊迫した状態にあったので、それを学校の友達には誰にも

話すことができず、学校にはきちんと行っていたけれど、

人に心が開けない状態だったのだと思う。

高校2、3年のときはお昼を食べるグループが決まっていなくて、

毎日あちこちのグループを放浪していたのを覚えている。



そんなことがあったから、私は戦争には普通の日本人の人が

考えるよりも敏感なほうだと思う。

私は1994年から98年までニューヨークで過ごした。

前夫の仕事の転勤についていったのだ。

日本に帰ってから、2001年にニューヨークですざましいテロが

あったときも、被害にあった人、亡くなった人のことを考えて心が痛んだ。

友人のMさんは、当時旦那さんが証券会社に勤めていて、

テロを標的である(今はなき)世界貿易センタービルの

すぐ近くにオフィスがあったので、テロがあったときには

すぐさまオフィスから逃げ出し、家までひたすら走り続けて

難を逃れたそうだ。

そのときからだんなさんは海外出張は行かなくなったそうだ。

それだけあのテロを経験した人に大きなトラウマを残した出来事だった。

もう9時40分だ。

ちょっと朝から飛ばしすぎた。

そろそろ休もう。