治すということは | 宮菜穂子オフィシャルブログ「菜時記」Powered by Ameba

治すということは

夢があっていいね、なんて言いますが。
夢があったり、
こうしたいなぁ、なんて思っていると、
一日一日、
ひと口ひと口を大切にしますね。
だってそれが、私たちをつくるのだから。
元気とやる気がフツウに、自然にないと、
よぉーし!
という気は続きにくいですから。

口からはいるものは、やがてお尻の口から出ていきます。
ひと口ひと口が、身体のなかの迷路をたどり、
たくさんの部屋を探検し旅をして、
元気よくあちこちでこんにちわをし、
元気よくでてゆく。

ただそれだけのことが、その人自身の元気をつくる。
ただそれだけのことが、人はとってもむつかしい。
当たり前です。

朝起きてから、夜眠るまで、
たくさんの人に会い、見たり聞いたりし、
そのひとつひとつに、
驚いたり、喜んだり、怒ったり、哀しんだり。
そのたびに、ひとつひとつの身体の機能は少なからず影響をうけ、
それぞれの仕事の効率は上がったり下がったり。
あるいは停止してしまったり。

朝起きてから、夜眠るまで、
歩いたり、走ったり、壁にもたれてみたり、荷物をもったり、
キーボードうったり、頬杖ついたり、。
そのたびに、身体を支え形づくっている206個の骨たちは、
あちこちたくさんの動きをくりかえす。
骨と骨をつなぐ健も筋肉も総動員。

無意識的にも意識的にも、私たちの身体は、
ものすごい量の目にみえるもの、見えないものを取り込み、
気づかないうちに、ろ過装置にかけ、出してゆきます。
そこが目詰まりすると狼狽する。
詰まった水道、つまった網戸。
水はけも、風通しもいい方が、心地がいい。

いい匂いをかいだり、いい湯につかったときの、
あの心地いい感じ、あれは身体の機能も骨たちも、
共鳴し合って手をつなぐ。

でもそんな時はそう多くはないはず。
だから内側と外側がちぐはぐちぐはぐしているうちに、
どこか病気になったり、怪我をしたり。

病院に行くとたくさんの名前をつけられ、
むつかしいデータをもらい、
なんだか大変なことになっているような気がしてしまいます。

たしかに、大変な事態なのですが。
治していく過程には、あるいはリハビリという名の過程には、
自分はどうしたいのか、いま自分自身はどう感じるか、
ということに気づくこと
あるいはそう気づける自分をを取り戻すことが
大切なのではないかなぁと思うのです。

あたりまえに空気を食べ、出し、
あたりまえに食べ物を食べ、出し、
あたりまえに言葉を、気持ちを、情報を食べ、出す。
そんな私たちの当たり前の積み重ねの中に、
病院でうける治療とはまた違う意味での、
あるいはもっと大きな意味での、
繰り返さないための治療、
その人自身を取り戻す治療がひそんでいる気がします。

なんだかまわりの人がキラキラしてみえなくなった、とか、
なんだか何をしていても飛び出していきたいほど元気だ、とか、
なんでもかんでも食べたいとか、
なんにも食べたくないだとか、
そんな時期はサイクルとして一日のなかにも、
一週間のなかにもあります。
考える脳を持ち、心をもつ人間だもの。
日はのぼり、また沈むところに住んでいるのだもの。

そんななかで、
オレ、今どう感じてるんだ、どうしたいんだと問うのは、
たやすいことではないけれど。
大なり小なり、身体のなかでの異常事態の発生というのは、
事故やハプニング的なことは例外として、
その起こったことの中でなく、
日々の習慣の中に、日々の目にもとめていないあたりまえの中に、
ひそんでいるような気がします。

そして、それに気づき、
決して変える、ということでなく、
あぁ、そうなんだ、と意識してあげて、
あらためて、当たり前の仲間入りをさせてあげることで、
切って縫ってや、お薬の時間が過ぎても、
その人自身の元気をたもち、
その人自身になれる毎日を戻してくれる方法のような気がします。


すこぅし季節が巡ってきて、
冬籠りの時期が遠ざかってきたら、
なんだか私のまわりだけでしょうか。
身近なひとたちが、臥せってしまうことが多いこの頃。

季節が、次の季節へバトンタッチしていくように、
私たちが口にするひと口ひと口も、
出口まで、それぞれのお部屋が仕事しやすいように、
丁寧にかみしめてゆくこと。

そんなあたりまえから、
はじめてみましょか。