今年も8月15日の終戦記念日がきました。

 テレビで花火を見ていて、ヒュードン!と花火が打ち上げられる音に記憶が呼び覚まされました。

8月15日の終戦記念日がくると思い出すのです。


昭和20年5月24日、私は8歳で東京は目黒の下目黒で戦災に遭った。

 いつものように洋服を着たまま寝ていると、ドンと地響きして玄関に焼夷弾が落ちた。逃げろッと父の声で、母は生後1ヶ月の妹をお腹にくくりつけ、2歳の弟は叔母におぶさり、私は防空頭巾を被って火の粉の中を逃げた。


 学校の前の原っぱは人でいっぱい。爆音に空を見上げると、キラキラと星のような流れが落ちてくる。それは焼夷弾だった。大きな音が炸裂して周囲に火が上がった。と、私の顔の前が真っ赤になり熱いっ。焼夷弾の油火が飛び火して私の防空頭巾が燃えていたのだ。 


 私の悲鳴に気付いた母と男の人が砂地に転がして火を消してくれた。その時の顔や手足の火傷の跡は、まだかすかに残っている。

 私の通っていた国民学校は目の前で火に包まれて燃え落ち、どこからか馬が一頭、

火の中を走り抜けていった。映画のような光景を今もまざまざと思い出す。 


 あの戦災の体験を自分で語れるのは私の年代がもうギリギリです。私の弟も妹も健在ですが幼くて記憶にないと言います。

 私の火傷は幸い、右のあごの下だけでした。防空頭巾の隙間のあごに火が入ったのです。

 父と母は女の子の顔なので、心配して紹介してくれた外科の先生に診せたり大病院に行きました。

 私の腕の皮膚をあごに貼り付けて移植するという手術をするとか。恐ろしくてイヤだと言いそのままになりました。

成長していくうちに、薄くなっていきました。


 写真は戦後6年の妹と私。家を戦災で失い湯河原に疎開。終戦の後、東京の港区に父の事務所があり、そこで暮らしました。

 写真の左奥に都電が映っています。当時は都電が交通機関でした。


 今弟も妹も元気でいます。私は86歳でこうしてブログ書いたり、オンラインで書き方講座を立ち上げています。

 生きていてよかったと、有り難く、感謝しています。

それに付けても、私の孫娘たちに世の中に私の体験を語り継がなければと思います。


こうして書いたことで、何人かの人にお伝えすることが出来ます。

S N Sによって書くことができるのは

世界が身近になります。

多くの方に書いて頂きたく思います。


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