昨日と今日はふと高校時代のアルバムを見てしまった。

見たくないものなのに、ついつい脚立を使ってまで高いところにしまっているアルバムを下ろしてしまった。

今日はそのあたりを自分でも整理するという意味で書いてみようと思う。

 

私にとって高校時代は辛かった。

高校に入学して卒業するまでの3年間が辛かった。

高校生活がつらかったわけではない。家庭の経済力のなさが辛かったのだ。

小遣いがないから辛いというレベルではなく、食事もままならないような家だったことが辛かった。

 

友達と遊ぶ余裕はなかった。彼女を作ることもできなかった。悪友とつるむこともできなかった。そういう状況だった。しかしそれを人に言うことができなかった。恥ずかしかったからだ。貧乏は元々のことで、それは小学生の時から人には言えなかったから、そのまま高校生になってしまったというだけの話だ。言ったら同情される。それは嫌だった。そして同情はされるけど、支援されることはない。言うだけ無駄だし、むしろ損だ。貧乏の度合いは小学生のころに比べれば高校生の時がピークと思えるほど悪化していった。両親ともに働いていなかった。働けなかったのだ。だから働くのは私の仕事だった。

 

中学時代の私、顔立ちは悪くなかった。中立的な人間だし、バレー部の主将でもあった。成績も悪いほうではなかった。小学生のころのようないじめられっ子ではなくなっていて、むしろ、多少の人気はあったようだ。

私が1年生の頃から好意を抱く女の子と奇跡でも起こったのか、付き合うこともできた。間違いなく人生で一番の幸せだった。今でも好きだ。

 

中学3年の秋から付き合ったが、高校は別々になった。最後にあったのは3月14日のホワイトデーで私が花を届けに行ったときの一瞬だけだった。付き合うといっても初めてのことだし、何をしていいかもよく分かっていなかった。ただいつも緊張していた。私にとってはいつも「高嶺の花」だった。今でもそうだ。

 

高校に行くころには家庭の状況はますますひどくなった。「高校に行きたいなら自分でバイトして行くんだぞ」と兄に言われていたが、高校はアルバイトを禁止していたので認めてくれなかった。それを兄に伝えたがそれも許されなかった。泣きながら先生に頼んだ。学年主任にも話がいったようでその日のうちにアルバイトは許された。すぐに自分にできそうなアルバイトを探した。探し方は分からない。家にあったタウンページで探した。家と学校の間にあって、自分にできそうなこと。皿洗いくらいしか思いつかなかったので、さほど時間もかからずに「うちだ屋」といううどん屋が引っ掛かった。引っ掛かったのはうちだ屋ではなく私の方だったのかもしれない。

 

ゴールデンウイークから働き始めた。最初は3時間ほど。何も分からない、何も知らない16歳だった。たくさん怒られた。常識を知らないので当然だ。料理の「り」の字も知らない。「からあげ」と「とんかつ」の違いすら曖昧だ。フライヤーという揚げもの担当に任命された私は「からあげ」の注文を受けて、いろんなメニューをインプットしている最中の「からあげ」は「5こ」というルールが正しくアウトプットされたが、とんかつを5枚投入してしまった。とんかつを5枚も投入すればフライヤーは泡だらけになる。遠くから先輩が「おまえ、何入れた?」と聞いてくるが「からあげです…」と弱腰で答えると「それ、とんかつな!」と言われ先輩が「からあげはこれな!」と目の前で入れてくれた。さすがに覚えた。

 

そんな悪戦苦闘に慣れたのはいつごろだろうか。だいぶかかった。遅すぎた。いや、バイトに慣れるのが遅かったのを言い訳にはできない。私の人間力のなさによりフラれた。付き合う時もフラれる時も言い出すのは彼女からだった。自分では何もできない。今でも同じかもしれない。別れる原因は4月から会っていなかったから。4、5、6、7、8、9、10月、7か月も経過していた。家は近いのに。会いに行けなかった。家の近くまでは行くのだが、勇気が出なかった。会えなかった。中学時代の自分とは程遠い自分だったからだ。自分でも説明できないような今の自分を見せることができなかった。ただそれだけだった。話したいことはいっぱいあるのに。聞きたいことはいっぱいあるのに。何なら分かれてくれたことに感謝した。まったくひどい話である。自分でも分かっていた。だからそれを戒めとして私は心を閉ざした。学校では女子とかかわることは辞めた。同じ中学から進んだ友達はたくさんいたので、元カノにイヤな情報が行くことだけは避けたかった。せめてもの償いとしたかった。

 

心を閉ざしたことにより、目つきが変わった。人と関わりたくないから、人を見ないようになった。元々つり目だったが、つり目のレベルが最上級になった。アルバムにうつる自分を見て自分でも驚くほどつり目が酷かった。怖すぎて、だれも私の目を直視できなかったのではないだろうか。通るところは勝手に道ができたり、知り合いでも私を見たら目を背けた。腫れ物に触るような待遇だった。そんな高校時代を送ったなんてことは今の同僚には想像もつかないだろうから、それはある意味面白い。いまはあの頃より目が大きくなった。戻ったといっていいのかもしれない。目って変わるものなんだ。

 

高校生活の3年間は友人の少ない中での生活だった。ただ、それでも楽しいと思えるほど、周りには楽しい友人たちばかりだった。関わりのない人にとっては関わらない方が良い人と思われただろうが、普段関わりのある人から見ると普通の人だったに違いない。とは言え、あんな私にでもよくしてくれたのだからよっぽどいい仲間だったのだと思う。できることならクラスのみんなと分け隔てなく関わりたかった。私の知らないところで私が謎多き男だったことを無意識レベルで気にした人も多かったに違いない。不思議な存在であったことはクラスのみんなに申し訳ない。

 

だからこそ、なかなかに卒業アルバムを開くことは私にとっては苦痛である。