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最近ズボンに入れたライター
が行方不明になる。

たしかにポッケにしまった
はずが探っても出てこない。


ポケットはそんなに広いもの
ではない。落ち着いて丁寧に
探せばある。

でも「ない」と本気で思い
込んで結局あった時のがっ
かり感がすごい。


冬の寒さで指の感覚が鈍り認識
できなかったのだと言い聞かせる
が二度や三度ではない。



先日は店でライターを
しばらく探した。

ズボンやジャケットを改めるが
見あたらず店員さんにライター
を借りたら皿の下から出てくる。

こうなるとがっかりでなく
ぞっとする。とうとう来る
ものが来たと思う。



ツィッターで若年性の認知症
男性が毎日新聞に寄せた文章
を読んだ。

抜粋して転載します。



忘れるということは、ただ
単に忘れるということでは
なく、大きく穴を開けた傷
に塩をすりつけるほどの痛み
があります。


いつも会っている人の名前が
驟雨(しゅうう)の如く流れ
消え去る。それは大事な世界
を落としたことになり、自分
自身が崖に滑落したような
大きな痛みと悔しさにあふれる。

 (中略)


あなたがあなたであるという
ことは、記憶の森に住んで
いるからである。私はどんどん
砂漠が広がり始めて自分すらも
見失うのである。


ひとつの名詞の大切さを今は
思う。世界は名詞から創造
されており、私はそこから
剥がされようとしているのだ。

それは恐怖なのである。


認知症とは世界への大きな
恐怖を伴っている。


あなたが認知症の患者を見る。

しかし認知症者にはあなた
を区別ができない。名前が
ないからである。記憶も未来
もまた忘却によって喪失して
しまう。


多分これから私は名前のない
砂漠のような世界に暮らすの
ではないかと思う。いつか
愛する妻も忘れるのだろうか。

それだけはやめてほしい。