ARATA's blog

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本と映画と教育についてのひとりごと

 
 人間は
 快さとか、幸福とか
 安らぎによってではなく、
 自分の人生の中で
 大半を占めるものによって
 支配されて生きている。
 人は、常に自分自身の核へと向かう
 それこそが
 人間をとらえる複雑な網目なのだ。


 サン=テグジュペリ「星の言葉」
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社会人になり1ヶ月経った。楽しいこともあれば、そりゃ辛いこともある。これは別に大学生と変わらない。

ただ、本当に辛いのは、辛い時に「ひきこもる」ことができないこと。
布団にくるまって一日何もせず過ごしたいこともある。映画でも観てぼーっとしたいこともある。しかし、お金をもらい、誰かが僕を待っているならば、それは許されない。

組織は矛盾や誤解が大前提で成立している。僕はそれに対し、賛成も反対もするべきではないと思うが、その矛盾や誤解を前提を拒否し自分(たち)の繭に閉じこもることだけはしたくはないと思う。

だって、コミュニケーションだってそうでしょ?
ウィトゲンシュタインは「コミュニケーションに伴う矛盾や誤解を取り入れた上で自己と他者の間に規則が成立する」ってことを言っている。僕らは矛盾や誤解に開き直るのではなく、矛盾や誤解もあるけど、このメッセージが君に届くように一生懸命にならないきゃいけない。そこでコミュニケーションを放棄したり、開き直ってめちゃくちゃなことを言ったりしてはいけない。

「誤解(誤配)」というのは、大学生の頃から、僕自身が悩まされてきた問題でもあり、そのためにか学問的にも魅力を感じることだった。コミュニケーションを学んだにもかかわらず、言葉足らずや余計な一言で誤解を招き、意図とは真逆の想いが相手に伝わってしまう。今、落ち込んでいるのも僕の「手紙」が「誤配(誤解)」されていること、誰に届いたか、どのように解釈されたか、僕にはまったく分からない状態であること。そして、その「誤配」が僕の評価になり、言い訳できない状況になってしまっていることが原因である。

決して愚痴と解釈しないでほしい(ここは作者として強く主張したい)。僕は改めて、コミュニケーションのおもしろさ(interest)を認識したということだ。

誤解は前提だが誤解されると悲しい。ただし、誤解がないコミュニケーションは「(つまら)ない」。僕が感じる「悲しさ」から何が抽出できるかをこれからじっくりと考えていこうと思っている。