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さいたま市の一級建築士として、仕事の事だったり、事じゃなかったりする事をつらつらと書いていきます。

今回の奈良・京都旅行。

 

特に、奈良でどこを見学するか、となって真っ先に決めたのが「慈光院」への再訪でした。

 

大学の大先輩であり、ぼくが10年お世話になった「檜の会」の主催者であった吉原正さんが生前

 

「建築をやる者は、この空間の良さを理解できなければだめだ」

 

と、いわれ、15年前にご一緒させていただき見学をしたのですが、当時の、わかったようなわからなかったような、

 

曖昧な感覚が妙に記憶に残り、今ならばもう少し感じ方が違うかな、という自身への少しの期待を込めての再訪です。

 

 

寺といっても境内全体が一つの茶席のような感じであり外観も茅葺の簡素な造りで、そこに開祖の強いこだわりを感じます。

 

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書院の内法は5尺8寸に満たないほど。

 

その先の下屋の桁にとりつく一筋鴨居はさらに低い高さ。

 

書院の中から外を眺めると、外に広がる庭園風景の上側がスパッと切り取られそれがより強く水平を意識させます。

 

そして視界の下側で、砂利敷きの庭から、広縁の板敷き、書院の畳敷きの床という連続する存在が、

 

庭園の風景をぐっと内側へ引き込むような、何か引力のような力を感じさせてくれます。

 

 

初めてその場を訪れた妻も、思わず感嘆の声を上げるほどで、

 

ああ、建築に関わる人でなくとも、この空間の良さはわかるのだな、とちょっと嬉しくなりました。

 

横長に切り取られ、引力によって引き込まれた風景に、更に少しの緊張感を与えるように縦の柱が並びます。

 

水平と垂直という建築のプライマリーな要素だけで、これほどの空間を構成できるという事実は、

 

どんなに時代が進もうとも、とても大事な示唆を与えてくれているようです。

 

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建築とは囲むこと。そして囲むことで内と外という概念が生まれます。

 

日本の建築は元来、内と外の境界が曖昧で、曖昧である分その関係性は密接なものがあるといえます。

 

そして曖昧さの象徴的な存在が広縁であり、慈光院の広縁の存在はまさに内と外を柔らかく繋ぎ、

 

内部空間の構成の一部に外の風景を見事に取り込んだ秀例であるといえると思います。

 

しかしながら、翻って、現代では、温暖化が進みもはや曖昧な内外の境界という概念は、残念ながら通用しません。

 

住まいについても、その在り方は激変し、内部空間だけで完結できることが大前提となりつつあります。

 

でも、だからといって、これから建築をつくり続けるうえで、

 

この日本の建築の持っていた自然に対するおおらかで寛容な考え方を全くなくしてしまってよいのかと自問します。

 

この素晴らしい古の日本建築の在り方を如何に現代語訳し、今の環境にもふさわしく具現化できるのか。

 

それを考え続けることが、これからの大事なことなのだろうとの思いを強くしました。

 

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緩い風を頬に感じながら、誰もいない境内で妻と二人、ズズズっと抹茶を頂きつつ過ごしたひとときは、

 

心地良く「居る」という事を体と心に深く記憶させてくれました。

 

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温故知新。

 

言い古された言葉の意味をかみしめた再訪でした。

 

 

さいたま市の設計事務所 創順居アトリエ 直井建築設計室 http://naoi-boo.com