疎開中、広島で家族が被爆死 原爆孤児を支えた写真…父母の面影、ぬくもり胸に
8/6(木) 15:00配信  神戸新聞NEXT



原爆で家族全員を亡くした宮崎善行さん。遺骨もなく、
両親の写真を大切に保管してきた=京都市左京区


 原爆投下から6日で75年。広島平和記念資料館(広島市中区)には今でも、毎年50人を超える被爆者や遺族から数百点の資料が寄贈される。本人や家族が亡くなったり、高齢になり手元に置けなくなったりしたケースが多いという。神戸から移住後すぐに被爆した一家の“生きた証し”は3年前に届いた。寄贈したのは疎開先で一人生き残った長男だった。(小谷千穂)

 京都市左京区に住む宮崎善行さん(83)。2017年4月、父親の武二さんと母親のトシヱさん=当時(32)、妹の康恵ちゃん=当時(6)=と則子ちゃん=当時(2)=が、原爆の被害で亡くなったことを示す証明書を資料館に託した。乳児だった自分を抱く母と、兵隊姿の父の写る2枚の写真を添えて。「自分がいなくなっても、ここだと残していてくれる」

 宮崎さんは神戸市兵庫区で生まれ育った。体が弱く、妹2人と競うようにトシヱさんに甘えていたという。出征中の武二さんは帰宅すると、童謡「ふるさと」を1小節ずつ歌って教えてくれた。「あの時握ってくれた手のぬくもりが『おやじ』っちゅう感じかな」と目を細める。

 1944年、8歳の時に兵庫県北部へ集団疎開し、家族と離れた。翌年7月、体調を崩した宮崎さんを迎えに、武二さんが疎開先を訪れ、広島市に住居を移したと知らされた。神戸大空襲の影響とみられる。家族の元へ帰りたかったが「家の方も生活きついんやろな」と疎開先に残ると決めた。原爆投下の2週間前だった。

 8月6日午前8時15分、家族4人は今の原爆ドームがある広島市の旧猿楽(さるがく)町(現中区)の自宅にいた。爆心地でもあり、原爆で町の全てが消し飛んだ。4人は骨も残っていなかったといい、当時の町内会長が記した証明書には「爆焼死」と記された。

 家族全員の死を知ったのは終戦直後。他の児童は親が迎えに来るのに、いつまでも来ない。親戚とともに広島へ向かうと、町はがれきだらけ。建物の壁にはガラスが刺さり、灰で覆われていた。自宅の場所を親戚に尋ね、遺骨や遺品を捜したが、食器のかけら一つ見つからなかった。「何か手元に残したい」と小さな石を持ち帰ろうとしたが、「放射能がある」と止められたという。自身も入市被爆し、その後大病を患った。

 8歳で孤児となった宮崎さんは、広島の祖母の元でしばらく暮らした。1年ほどたったある日、祖母に怒られた際、母を思い浮かべた。「僕には甘える人はおらん。親がいない。ひとりぼっちなんや」と悲しさがこみ上げた。

 その後、親戚の家を転々とし、支援を受けながら大学へ進学し、商社に勤めた。結婚し、今では3人の孫がいる。長い間家族の形見がなく、わずかな記憶を支えに生きてきた。「思い出しては家族の記憶をかきあつめ、今の自分がある」と振り返る。40歳を過ぎ、親戚を介して別々に写る両親の写真が手に入った。被爆から2カ月後に発行された4人の証明書は約10年前に譲り受けた。

 寄贈後もコピーした証明書と写真を離さず持つ。「家族が生きた唯一の証し。何よりの宝物」とほほえんだ。

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 平和記念資料館で毎年開かれる「新着資料展」。昨年度の展示には、宮崎さんの家族の証明書が写真とともに紹介された。加藤秀一学芸課長は「横に並べると、家族全員が寄り添っているようで感動的だった」。展示を見て涙を浮かべる来館者もいたという。宮崎さんは「戦争や原爆とは何か、なぜ起きたのか、学びを深めるきっかけになれば」と願う。