旧約聖書「モーセ五書」を誰にもわかりやすく、簡単に

旧約聖書「モーセ五書」を誰にもわかりやすく、簡単に

旧約聖書「モーセ五書」を誰にもわかりやすく、簡単に

モーセ五書全体は、187章、4993節あります。
1ページ1節で、全てのページに聖書本文と挿絵のある聖書の絵巻物を作っております。

旧約聖書「モーセ五書」を誰でも簡単に、わかりやすく。

絵巻旧約聖書「モーセ五書」全54巻(創世記12巻、出エジプト記11巻、レビ記10巻、民数記10巻、申命記11巻)を監修しております。

本と動画の一覧

旧約聖書「モーセ五書」(全54巻)を誰でも簡単に、わかりやすく。

「創世記」(全12巻)の本と動画一覧:https://www.3m-meditation.com/new-genesis-jpananese

「出エジプト記」(全11巻)の本と動画一覧:https://www.3m-meditation.com/newexodus

「レビ記」(全10巻)の本と動画一覧:https://www.3m-meditation.com/leviticus-jpn

「民数記」(全10巻)の本と動画一覧:https://www.3m-meditation.com/torah-num-jpn

「申命記」(全11巻)の本と動画一覧:https://www.3m-meditation.com/deuteronomy

この絵巻旧約聖書「モーセ五書」は著者が神の言葉を学ぶために作られました。

モーセ五書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典です。

このモーセ五書全体は、187章、4993節あります。

「創世記」50章、1533節
「出エジプト記」40章、1213節
「レビ記」27章、859節
「民数記」36章、1288節
「申命記」34章、959節

モーセ五書は、古代の話なので、文字だけではイメージをつかむことは困難です。
そのため、著者は自分が勉強するために、内容がイメージしやすいように聖書の挿絵や古代の地図などを探しました。

この絵巻旧約聖書「モーセ五書」は、各節(4993節)ごとに挿絵的なイメージがあります。各節ごとに画像のある聖書はおそらく世界中で本書のみだと思います。
それにより、読者の皆様からは聖書の言葉をじっくりと味わいながら読むことができ、イメージがつきやすいとお声をいただいています。

旧約聖書「モーセ五書」を誰でも簡単に、わかりやすく。
本書で、今まで難しかった旧約聖書の「モーセ五書」を読んでみませんか?
きっとあなたの人生の灯火になる言葉が見つかると思います。

作者:石川尚寛(いしかわなおひろ) 共生の課題解決法研究会 主宰

ホームページ:共生の課題解決法研究会
https://www.3m-meditation.com
YouTube:モーセ五書チャンネル
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連絡先:info@3m-meditation.com


朗読音源:神宮誉 氏の旧約聖書 朗読
日本語字幕の聖書:口語訳旧約聖書(1955年版) http://bible.salterrae.net
「神はアダムを『ひとりぼっち』にしたくないと言った」
〜創世記が教える、あなたが「ひとり」ではない理由〜

僕が創世記を読んでいて、ずっと心に残っている言葉があります。

それは、神がアダムを造られた後の場面です。

「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
(創世記2章18節)

この「ひとりでいるのは良くない」という言葉、原文のヘブライ語ではとても豊かな意味を持っています。

ヘブライ語で「良くない」は לֹא־טוֹב (lo-tov) です。
実は、創世記1章で神が創造を終えられたとき、すべてをご覧になって「非常に良かった」(トーブ・メオッド)と宣言されています。
それが、ここでは初めて「良くない」という言葉が出てくるんです。

僕はこの箇所を読むたびに、胸が熱くなります。

神は、完璧な世界を造られたはずなのに、
ただ一つ「人がひとりでいること」だけを「良くない」と宣言された。
それは、神ご自身が「孤独」を深くご存じだからではないでしょうか。

そして「助け手」と訳される言葉、ヘブライ語では עֵזֶר (ezer) です。
この言葉、実は「下から支える助手」というような弱い立場を表す言葉ではありません。
聖書の中では、神ご自身が私たちの「エゼル」(助け)であると語られることもある、強い力を持つ言葉なんです。

つまり神は、アダムのために「単なるお手伝い」ではなく、
対等でありながら、互いを完全にする存在
を造ろうとされた。

僕はこのことを考えながら、自分の人生を振り返ります。
確かに、一人で頑張ろうとすると、視野が狭くなることがあります。
でも、誰かと共にいることで、見えなかったものが見えてくる。
自分一人では気づけなかった、新しい側面を発見できる。

神が女を造られたのは、
アダムが「孤独」で終わらないため。
彼が、自分とは異なる存在を通して、
自分自身をも、世界をも、より豊かに知るため。

そしてそれは、きっと私たち一人ひとりにも通じる問いかけなのだと思います。

神は今も、
あなたが「ひとりぼっち」でいることを「良くない」と思っておられるのではないでしょうか。

モーセ五書を読むたびに、こうした神の細やかな配慮に気づかされます。
表面的な物語の奥に、人間への深い愛が込められている。

僕自身、まだ学びの途中です。
でも、こんな風に聖書の言葉と向き合う時間が、
少しでも誰かの心に響くなら嬉しいです。

もしこの話が気になった方は、
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絵本のような優しいタッチのマンガで、
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「神の名前を軽々しく唱えてはいけない」本当の理由〜十戒に隠された、神との「近すぎる距離」の危うさ


最近、僕は申命記を読み直していて、ある一節で心が止まりました。


申命記511節です。

そこには、十戒の第三戒として、こんな言葉が記されています。


「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」


この「みだりに唱えてはならない」という言葉。

ずっと気になっていました。


なぜ神は、ご自身の名前を唱えることを、これほどまでに禁じたのだろう、と。


「名前」が持つ重み


僕たちは普段、人の名前を気軽に呼びますよね。

友達の名前、家族の名前。

それ自体は、親しみの表現でもあります。


でも、ここで言われている「主の名をみだりに唱える」という行為は、少し違うのです。


ヘブライ語で「みだりに」と訳されている言葉は、「ラッシャー(לַשָּׁוְא)」。

この言葉には、「虚しく」「無意味に」「軽んじて」という意味があります。


つまり、神の名前を、軽々しく、空虚な言葉として、あるいはおまじないのように唱えるな、ということ。

神の存在を、都合のいい呪文のように扱うな、という戒めなのです。


名前は「人格」そのもの


当時の考え方では、名前はその存在の本質を表すものでした。

神の名前を知ることは、神ご自身を知ること。

神の名前を唱えることは、神の存在そのものに触れる行為だったのです。


だからこそ、その名前を「軽く」扱うことは、神との関係そのものを軽んじることになる。

神を、自分の願いを叶えてくれる便利な存在として扱い、真の関係を築こうとしない態度が、ここでは禁じられているのだと、僕は感じました。


「近づく」ことと「軽んじる」ことの間で


僕はこの戒めを読むたびに、一つの問いが胸に浮かびます。


神は確かに、私たちにご自身に近づくことを願っておられます。

でも同時に、近づきすぎて、神を「当たり前」の存在にし、その尊厳を忘れることにも警鐘を鳴らしておられる。


ちょうど、親しい友人を心から敬う気持ちを忘れないように、ということに似ているかもしれません。

近しさが、無礼や軽視に変わってはいけない。


神の名前を唱える時、僕たちはその名前の背後におられる、計り知れない尊い方に、本当に向き合っているだろうか。

それとも、ただの習慣や、形式的な祈りの言葉として、空虚に繰り返しているだけだろうか。


この戒めは、そんな僕自身の祈りの姿勢を、静かに、しかし厳しく問いかけているように思えてなりません。


僕はまだ、モーセ五書の学びの途上です。

一節一節が、予想以上の深さで心に響き、毎日が発見の連続です。


もし、この「名前を唱える」ことの深みや、十戒に込められた神の思いにもっと触れてみたいと思われた方がいらっしゃれば、ぜひAmazonで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索してみてください。

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絵と共に読むモーセ五書は、きっと新しい気づきの扉を開いてくれるはずです。

僕も、これからも学びを続けていきます。


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隣人を愛せよ、と神は言った。それなのに、なぜ宗教は殺し合うのか?


SNSで話題のあの衝突を見るたび、胸が苦しくなります。


同じ創造主を信じる者同士なのに、なぜこれほどまでに傷つけ合うのだろう。

「隣人を愛しなさい」という教えは、どこへ行ってしまったのだろう。


そんな問いを抱えながら、僕は最近『申命記』のある一節と深く向き合っています。


申命記1019節ー「寄留者を愛せ」という命令


「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であったからである」

(申命記10:19


ここで言う「寄留者」とは、ヘブライ語で「ゲール」גֵּר といいます。

土地にも血筋にも属さない、文字通り「よそ者」のこと。


この命令が語られた背景を、僕はマンガを描きながら考えました。

イスラエルの人々は、エジプトで長く「寄留者」として、つらく苦しい経験をしました。

自分たちが味わったその孤独と痛みを忘れないために、

神は「寄留者を愛せ」と命じたのです。


ここで使われる「愛する」という言葉は「アハヴ」אָהַב

単なる感情ではなく、具体的な行動をもって示す愛。

保護し、正義をもって扱い、共に生きることを選ぶ意志的な愛です。


戒律の中にある、深い「記憶」の力


僕がこの節から学んだことは、神の戒律の根底には「記憶」がある、ということです。


「あなたたちも……であったからである」


この言葉がすべてを物語っています。

自分が苦しんだ者だからこそ、他の苦しむ者に手を差し伸べられる。

自分がよそ者であったからこそ、今のよそ者を心から受け入れられる。


では、なぜこの「記憶」が失われ、隣人への愛が戦いに変わってしまうのでしょう。


僕の気づきは、こうです。

私たちは、自分が「寄留者」であったことを忘れ、いつの間にか「土地の主」になってしまうのではないか。

かつての自分に必要なものを与えてくれた「神の愛」を、

今度は自分が与える側として実践するのではなく、

自分の立場や教えを守る「権利」にすり替えてしまっているのではないか。


同じ創造主を信じる者同士で、殺し合いが正当化される時


モーセ五書を読むと、神は確かに戦いを命じる場面もあります。

しかし、それは決して「信仰の異なる者を抹殺せよ」という無差別な命令ではありません。

むしろ、神の正義と契約に基づく、限定的なものでした。


そして、そのような文脈でさえ、神は繰り返しこう言われます。

「寄留者を虐げてはならない。あなたたちもエジプトの国で寄留者であったのだから」


この根源的な記憶と共感が抜け落ちた時、

「神の名」が、自分たちの憎しみや恐怖を正当化する道具にされてしまう。

僕はそう考えずにはいられません。


問いを抱え、共に五書を学ぶことから


僕にすべての答えがあるわけではありません。

今、世界で起きている複雑な対立を、単純に解決できるほど聖書は浅くない。

だからこそ、僕は学び続けています。


モーセ五書は、神と共に生きるとはどういうことか、

隣人とは誰か、を問い続ける書物です。

その問いを、僕はマンガという形で共有したい。

読みやすく、でも核心からは逃げずに。


同じ創造主を信じながら、なぜ私たちは傷つけ合ってしまうのか。

その答えは、もしかしたら「あなたも寄留者であった」という

シンプルすぎるほどの記憶の中にあるのかもしれません。


気になった方は、ぜひAmazonで『モーセ五書 マンガ 石川尚寛』と検索してみてください。無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。


僕自身、読者の方々と共に、この難しい問いを五書から学び続けたいと思います。


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モーセ五書出張勉強会を行なっています。

私、石川尚寛が出張して勉強会の講師をさせていただきます。

詳しくは、私のウェブサイトからお気軽にお問合せください。

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旧約聖書「モーセ五書 民数記」を誰にもわかりやすく、簡単に by 石川尚寛

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旧約聖書モーセ五書「申命記」を誰にもわかりやすく、簡単に by 石川尚寛

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こちらでは、本と動画の一覧をご覧いただけます。

 

 

モーセ五書は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の共通の聖典であり、全体で187章、4993節からなります。

 

文字だけではなかなかイメージをつかむことが難しい古代の話でもあるため、著者は自身の学びを深めるため、聖書の挿絵や古代の地図などを探し、それらを用いて内容をイメージしやすくしました。

 

この絵巻旧約聖書「モーセ五書」は、各節(4993節)ごとに挿絵的なイメージがあり、各節ごとに画像のある聖書はおそらく世界中で本書のみだと思います。それにより、読者の皆様には聖書の言葉をじっくりと味わいながら読むことができ、イメージがつきやすいと好評をいただいています。

 

旧約聖書「モーセ五書」を、どなた様でも簡単に、そしてわかりやすく。本書を通じて、今まで難しかった旧約聖書の「モーセ五書」を読んでみてはいかがでしょうか?きっとあなたの人生の灯火になる言葉が見つかると思います。

 

著者:石川尚寛(いしかわなおひろ) 共生の課題解決法研究会 主宰

 

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たった一度の失敗で諦めていませんか?モーセが教える「もう一度」の希望

僕はよく、過去のあの失敗を思い出しては、立ち止まることがあります。
あの時、ああしていれば…。
そんな風に、一度の過ちが心を重くすることが、誰にもあるのではないでしょうか。

今日、僕が共に学びたいのは、申命記の二つ目のパラシャット、「ワーエトハンナン」です。
この部分は、モーセが民に語りかける、深く切ない言葉から始まります。

「ワーエトハンナン」という名前は、ヘブライ語で「そして、わたしは願い求めた」という意味です。
その言葉は、申命記3章23節に記されています。

「そして、わたしは主に願い求めた。『主よ、あなたは、あなたの偉大さとあなたの力強い御手を、しもべにお示しになりました。…どうか、わたしに渡って行かせ、ヨルダンの向こう側の良い地、あの良い山、そしてレバノンを見させてください。』」

ここでモーセは、約束の地を目前にしながら、自分自身は入ることが許されないという現実に直面しています。
彼はかつて、民の前に立つべき時に、岩を打つという命令に従わず、自分自身の方法で水を出してしまいました。
その一つの行為が原因で、約束の地に入ることを許されなかったのです。

それでも、モーセは「願い求めた」。
もう一度、チャンスをください、と。
彼の心には、どれほどの切実さと希望があったことでしょう。

しかし、主の答えは厳しいものでした。
「あなたは、このことについて、わたしに二度と言ってはならない」。

僕はこの箇所を読むたび、胸が痛みます。
モーセのような偉大な指導者でも、一度の過ちが大きな結果を招くことがある。
でも、彼はそれでも願い求めた。
その姿勢そのものに、深い教えがあるように感じるのです。

神はモーセに約束の地に入ることは許しませんでしたが、彼を無視したわけではありません。
代わりに、ピスガの頂からその地を見渡すことを許しました。
そして、彼の後継者ヨシュアを立て、民を導く任にあたらせると約束された。
モーセの使命は、彼個人の願いとは違う形で、確かに次の世代へと受け継がれていったのです。

ここから僕が学んだのは、「一つの失敗が全てを終わらせるわけではない」ということ。
確かに、モーセは自分の望んだ形では目標を達成できませんでした。
でも、彼の人生自体が無駄になったわけではなく、彼の祈りや指導は、確かに民の心に刻まれ、次の時代へと引き継がれていった。

私たちも、過去の失敗に囚われて、前に進むことを諦めてしまうことがあります。
「あの時ああしていれば」という思いが、足を引っ張る。
でも、ワーエトハンナンの物語は、たとえ結果が自分が望んだ形と違っていても、その経験や学び、そして何より「願い求める」その心自体が、何かを生み出す礎になることを教えてくれている気がします。

モーセは、最後まで民を教え、導き、神の言葉を伝える使命を全うしました。
彼の「願い」は、別の形で実を結んだのです。

今、あなたの中に「もう一度」願い求めたいことがありますか?
たとえ過去に失敗があったとしても、その願いそのものに意味があるのではないでしょうか。
神は、私たちの祈りを聞き、時には私たちの想像を超えた形で、その歩みを導いてくださいます。

僕自身、このモーセの姿から、謙虚に願い続けることの大切さを学び直しました。
これからも、一節一節を丁寧に読み、その中に隠されたメッセージを探求していきたいと思います。

もし、このモーセの物語や、申命記の深いメッセージにもっと触れてみたいと思われた方は、ぜひ僕の描いたマンガ版を読んでみてください。

マンガ版「申命記」はこちらで無料で読むことができます:
Amazonのページで「モーセ五書 マンガ 石川尚寛」と検索するか、こちらのリンクから直接アクセスできます。
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また、この「ワーエトハンナン」の部分を中心に、絵と朗読で味わえる動画も公開しています。
朗読絵巻「ワーエトハンナン」はこちら:
https://youtu.be/RJTfu8RPT50

無料で読めますし、続きもどんどん公開しています。
僕のマンガ版では、モーセのこの切なる祈りの場面も、心を込めて描いています。
共に学ぶことができれば、これ以上の喜びはありません。

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