葉が落ちる季節になりました。
最近、
1日一首、短歌を詠もうと思い立ったのですが、
ものの1週間もしないうちに頓挫しました(^_^;)。
素養もないのに、いきなり始めようとするからそういうことになる(T_T)。
これだから素人は…嗚呼。
以前は鑑賞する目的で読んだけれども、
詠む立場でもう一度読んでみるとまた違った印象を持つかも知れません。
言葉の紡ぎ方を勉強しないとな。
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さて、
国語の、詩や俳句、短歌といった単元を得意とする中学生にお目にかかったことがありません。
たいていみんな苦戦しています。
それは一体何故か、と考えてみると、
やはりそれらの詩歌は吟味された言葉であるから、と思うわけです。
すっごく凝縮されている。
吟味された言葉は端的でわかりやすい、
という点もあるけど、
逆に、取捨選択で選ばれなかった言葉たちの重みを一身に背負っているという点もある。
だからこそ、1つの言葉に深さや奥行きがうまれるのだと。
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」
という松尾芭蕉の有名な句。たいてい中学生はお目にかかると思います。
当時高校受験を控えた長男K王子も、半分怒りながら教えを乞うていたことがありました。
「かつて、つわものどもが功名の野望を抱いて戦い、儚く散っていった居城も、今では夏草が生い茂るばかりだ」
っていう感じでしょうか。
そう説明すると、
「そんなこと一言も書いてないじゃんよ」と。
確かに、句の中にはそこまで文字として書かれていません。字面だけ見れば。
だけど、この句の奥に情景を見てとれるかというのは、その人がどれだけ自分の中に言葉を持っているか、というところなのかなーと思います。
もちろん言葉だけが頭にぎゅうぎゅうに詰まっているのではなくて、
言葉が豊かに様々なものに変換されていく、イメージするという力。
それが、特に詩歌を詠んだり鑑賞したりするのには必要なのだと思うわけです。
で、結論を言えば、その力を鍛えるには、やはり読書。に尽きるでしょう。
短歌を詠もうにも、なんかこう、ふさわしい言葉が自分の中にないことにちょっとがっかりしている状況。
高校の時の恩師に言われたことがあります。
「お前の文章は説明口調だ。なんでも自分で説明してしまおうとする。
もっと読者に想像の余地を与えなさい。」と。
そして短歌や俳句を詠むことを勧められたのでした。
文章を書くのは好きだったのに、短歌や俳句はてんで駄目で、
恩師にコンテストの応募を勧められたのに、ろくなものを作れなくてすっごい苦労した覚えがあります。
なんか最近それをふと思い出したということもあり、
あともうひとつは、
「小説を書くぞ!」
という宣言をするという夢を見たこともあり、
いやいや小説はさすがに無理だけれども、
日常的に、意識的に、言葉を紡ぐってことをしていこうかな
って思ったわけなのです。
ここで一首。
日々一首詠むを思い立ったのに不勉強故頓挫する件
それではまた~👋🏻…ソソクサ