何か嫌な状況や現実が起こった時に、

自分を変えたことで、

「世界が優しくなりました」

「職場の人たちが優しくなりました」



という話をよく聞いたり見たりしていました。



だから、私も

嫌な出来事があったり、嫌な人がいたりすると、

その状況を変えたくて、

優しい世界にしたくて、

優しい人に囲まれたくて、

自分を変えることに専念していました。




今、振り返ると、

それ自体が、

自分の幸せが外側次第な在り方だから、

やってもやってもエンドレスだよな…

と気付けますが、

ほんの数ヶ月前までそうでした。




そして、

「優しい」の設定が、



「自分をいい気分にさせてくれるもの」



だったから、

自分を嫌な気分にする人は、

「優しくない人」「ひどい人」



自分が不快な気分になる出来事は、

「ひどい出来事」



となり、そうならないように、

自分にとって嫌な人や出来事を、

そのような世界をコントロールする必要がありました。



それを直接、

外側から変えようとする場合もあれば、

自分を変えることで、

外側を変えようとする場合もある。 




手段は、どうであれ、

目的は、外側を変えること。

作りたい外側の世界とは、

「優しい世界」




つまりは、

「自分が心地よいとだけ感じる世界」




そう書いてみると、

絶対無理なことがわかります。

絶対無理なことのために、必死になって、

自分や他人を変えようとしていたんだな…

と、時間を無駄にした気がする…

とすら思ってしまう。




いろんな人が発信する中で表現されている

「世界が優しくなった」

は、人によって違うのでしょうし、

受け取り方によって、本当に変わります。

(ちなみに、最近、受け取り力が、人生を変えると、本当に思う)



今の私は、

「世界が優しくなった」ではなく、

「世界は、ずっと優しかった」

という方が、適切な表現になります。



「優しい」の設定が、変わったことがとても大きい。



「優しい」の設定が、

「自分をいい気分にさせてくれること」

だと、そうじゃないものは、

全て優しいではなくなるし、

そうじゃない人は、優しい人ではなくなる。



しかも、

自分の幸せを他人に決めてもらっている

という在り方で生きていることにもなる。



さきこさんと出会って、



感じることは全て喜び。

自分の幸せは自分次第。



を鵜呑みにしてから

常に自分に問いかけてきました。

感情と幸せを切り離して世界を観るようにしてきました。



その今の私は、

「優しい」とは、

「全てのもの」なのです。




私の人生で出会うものも、人も、全て、

起こる出来事全て、

感情に関係なく、

何かしら、私の人生に何かを与えてくれ、

何かを考えさせてくれ、

何かしら成長させてくれる糧となっている。




そう設定すると、

生まれてからずっと、

「世界は優しかった」のです。

これからもずっと、

「世界は優しい」のです。



ずっと与えられてきた優しさがあったのに、

それを「嫌な気分になるから排除!」と、

私が受け取らなかった、

それを「愛」とは「優しさ」とは、

呼ばなかっただけなのです。




愛とか優しさは、

自分の感情とは関係なかったのです。



「優しさ」について考えた時に、

私は、自然のことを考えたのです。



自然は、いつも、

私たちに都合よく心地よいものだけを与えてくれるわけではない。

人間にとったら、過酷と呼ばれる現象を起こす。

台風、地震、豪雨…災害と呼ばれるもの。



だからといって、

自然が優しくないとは思えない。

自然は、いつも、私たちに何かを教えてくれている。

温もりもあり、厳しさもある。

ただ、私たちが勝手にそう呼んでいるだけ、

そう感じているだけで、

自然そのものが愛であることは、間違いないと思える。




そう思うと、

今まで自分が呼んでいた、使っていた

「優しい」とか「厳しい」は、

自分の個人的な都合にすぎないだけにすぎなかった。

いい気分の時、嫌な気分の時に、

そう呼んでいるだけ。





いろんなことを経験させてくれること

いろんな感情を味わさせてくれること

全部ひっくるめて、

どんな人もどんな出来事も優しかった。



だから

いつでも世界は優しい



の設定の方が、簡単で楽ちん💓だな

と思うのです。