いつも問われている気がする。

 

「お前は何でも中途半端で物事から逃げているだけだ」

 

「何がやりたいのか分からないのなら、さっさと就職しちゃえばいいじゃん。それから見えてくることもあるし、転がった先にこそ本当の道があるんだよ」

 

「挑戦するのが怖くて、その言い訳を探しているだけなんじゃない?」

 

「正社員の方が給料もいいし、何考えてるの?」

 

「世の中、そんな甘い考えのやつが通用するほど簡単じゃない」

 

「現実みなよ」

 

「社会のお荷物が」

 

「ただでさえ一浪しているんだから、それなのに」

 

「就職できなくなっちゃうよ」

 

「親のすねかじりたいだけのだらしない奴」

 

 

うーん・・・

 

こうして並べてみると圧巻だな。(言葉はこれより優しかったり、キツかったり多々あります。)

 

・・・

 

まぁ、この問いかけはある意味正解であり、

 

僕自身もつい逃げがちになってしまうこともあるので、

 

自身を批判的に見るときには役に立つ。

 

そう。

 

 

でも、結局問いたいのは、

 

「お前はいつアクセルを踏むんだ?」

 

てことだろうと。

 

 

行動する人間が美化される現代において

 

逆張りの男は

 

果たして何を考えているのだろうか??

 

・・・

 

「僕だって行動したいよ・・・」

 

と少し弱気に嘆いてみた後に

 

いつだか

 

ネットで有名な“自己防衛おじさん”が言ってたことが

 

頭から離れない。

 

 

「世の中は運と縁とタイミング」

 

 

・・・

 

 

人生をカードゲームで例えたら、

 

手持ちのカードで如何にこの局面を乗り切るか?

 

と同じくらい

 

手持ちのカードが揃うのをじっと待ってから、

 

いざ、勝負も重要なはずだ。

 

「はっはっは・・・どうだフルハウスだ!!」

 

・・・

 

もっと具体的に行こう。

 

探索アルゴリズムなるものがなんかPCの世界ではあるらしい。

 

何というか、行き当たりばったり近くの今より高い山を登るでは・・・

 

局所最適解。つまり小さな山のてっぺんは到達できるかもだけど、

 

それが本当に登りたかった山とは限らない。

 

(富士山登りたかったのに、近くの高尾山を間違って登ってしまったとか?)

 

 

目の前の高い山を登るよりも、最初は何度か適当に?場所を変えて登ってみる。

 

その後、どんどんそのランダムさを減らしていって(時には山を下ることになろうとも)

 

自分自身の本当に登りたかった山にそこからドーーンと一直線。

 

このランダム(それでもだいぶ分野は絞っているが)

 

の現在の局面が

 

どうやら

 

すごく無駄に見えるのは分からなくもない。

 

 

自分の周りにそういう奴がいたら、

 

俺も同じことを言いそうだ。

 

・・・

 

つまり問題なのは

 

この知識や経験を探索する過程が

 

自分自身の専門分野を深化させることより

 

軽んじてみられてしまう傾向があることだ。

 

 

「これはどうにかならないだろうか?」

 

 

 

・・・

 

 

これを書いているうちに確信に変わったことが一つある。

 

「なぜ自分は“学習社会ネットワーク”という訳わからん教育学部の学科の学生なのであろうか?しかも最終学年。」

 

「一浪一留(おそらく二留)の遠回り人生。終いには専門分野から離れたアルバイトで時間を浪費している。」

 

「わがままでやりたいことを仕事にしたいどうしようもない世間知らず」

 

 

ちょっとミックスさせてみた笑笑

 

「僕は社会との接続を考えた上で、遠回りが、寄り道がその人の人生の肥やしになる教育?いや学びのシステムを作りたい。」

 

「もちろん好きなこと・やりたいことにアクセルを踏む瞬間がやってくるのは言うまでもない。」

 

・・・

 

生意気だが、こんな感じの上から目線で偉そうな人への怒りも多少ある。

 

「僕たちは誰も偉くない。もし自分が偉いと思っているのであれば、それはただ相対的に経験を積んでいると見られる大人っていう形容詞に自惚れているだけだ。それなら子どもたちに多様な経験の機会というフィールドが用意されれば、自然とその上から目線という見方も変わるのではないか?だって自分たち以上に多様な濃い経験をしているのだから」

 

ふむふむ。

 

見えてきた。整理されてきた。

 

うん。

 

 

じゃあ、アクセルを踏むか。