私は都立上野高校に通っていたので、今のJR線上野駅の「公園口」から高校までの1キロ余りの道を毎日歩いて往復した。
駅を出て通りを渡ると、右手の国立西洋美術館の庭にロダンの「考える人」のレプリカが見えた。

左手は、当時有数のコンサートホールであった東京文化会館である。NHKホールも、サントリーホールもなかった時代である。


その先に噴水のある広場があり、冬はコバルトブルーの澄みわたった空が広がっていた。

広場を抜けると上野動物園の檻があり、見慣れぬ大きな鳥がこちらを見ていたのを思い出す。➡上野公園地図はこちら
そのまま行くと地下に潜った京成線の「動物公園前」駅入り口があり、左に曲がると東京藝術大学の通りに出る。左が「美校」と呼ばれた美術学部、右が「音校」と呼ばれた音楽学部である。同じ方向をゆく人の中には発声練習をしながら歩く学生がいた。音大生はこんなものか、と思ったものである。
藝大で興味深かったのは、音楽学部の敷地内に相撲の土俵があったことである。時折陣太鼓のような響きがして、瘦せ細った「力士」が四股を踏んでいた。相撲よりも太鼓の練習をしているのではないか、と友人と話した記憶がある。
その先のT字路を左に曲がると、母校の都立上野高校がみえてくる。「都立」とわざわざ断るのは、三重県にもうひとつの上野高校が存在するからである。
都立上野高校は、私が通った頃は都内有数の受験校だった。山の手の日比谷、西、戸山、新宿高校には及ばないが、小石川、両国高校などと並んで名門大学合格者数を争っていた。作曲家の小椋佳はこの高校の出身で、東大法学部を卒業後第一勧銀に入行し、銀行員でありながら「シクラメンのかほり」などのヒット曲を次々と生み出して一世を風靡した。
ちなみにこの歌の題名の「かほり」というのは、上野高校時代から付き合ってその後結婚した夫人の名前だそうである。この話を、小椋佳を見知っていた私のクラスの担任教師から聞いた。高校生時代の小椋はもの静かな勉強家で、まさか将来芸能人になるとは夢にも思わなかったという。
その上野高校も今は受験校時代の面影がないそうで残念だが、その原因には学校群制度と学園紛争が少なからず影響したと思う。これについては後日書きたい。