今でも覚えている7年前の今日、4月1日
ミャンマー、中国と長期出張から帰った翌日、かなりつかれていたんだけど
毎年恒例で娘も行きたいと言うので、嫁の実家近くの桜まつりへ
娘と二人で桜の下にブルーシートを敷いて娘の写真を1枚
すると嫁が生ビールを持ってやってきた
義父と義母も現れて屋台で買ってきた焼きそばとかひろげてたかな
これが自分の健常者として、痛みと共に生きなくてよかった自分の最後の瞬間
異変はそこでおこった…突然の右下腹部に刺すような痛み
今まで感じたことのない耐えがたい痛み
前日までいつお腹を壊してもおかしくない場所にいたので
便をもよおしたかと近くの実家まで歩きだしたが、途中で右足に痺れ、
実家の玄関に倒れこんだときはもう動けなかった
腹痛が治まり、嫁に電話して家にきてもらい救急にかかりに病院へ行きたい伝え、
そのまま結石とか何かと行っていた名城病院の救急へ
もちろん、運転なんてできずこのころすでに痺れとともに右足の感覚は
なくなってきていたかもしれない
到着すると若い研修医と思われる人と数名の看護師がいて
看護師にせかされるように若い医者があわあわと看てくれるが当然何もわからず、
レントゲン、MRIすべてとったがどこも悪くないと
そのころには下半身はほぼ麻痺で立ち上がるどころか起き上がることさえできない
そこへ「もし、帰れるなら今日は帰りますか?特に何もみつからない」と言われた
ちょっと、待てよ・・・これ見てよ、麻痺だよ、麻痺、
帰れるわけないだろってことで一晩入院することに
夜、右足だけが長く伸びているように感じたのを覚えている
嫁にそういって不安の中、電話した
感覚が消えていくのをそう感じたのだろう
翌朝、週一で来る神経内科の先生が来て、これは専門の神経内科のある病院へすぐに
転院しないといけないと言われ、どこに行きたいか?と聞かれたが、そんなのわからない
で、となりの元国立病院へ救急車で転院
この時には意識も朦朧としていてよく覚えていない
目覚めれば下半身はこんにゃくのよう、尿意も便意も感じないし
何もできないのと同時に強烈な電撃痛で触れるものすべてが
焼けている籠手をあてられているように感じて
パンツもはけずジャングルジムのようなトンネルを被せて
布団をかけてひたすらうめいていた
しばらくしてステロイドパルスが始まったように思う
もう、あの日から桜まつりには行っていない
そのあとの経緯はこのブログに書き留めたとおり
意味の分からない病との闘いの日々
ブログに書き留めていたのもいつかよくなる、同じ病の人のためになれば
希望の星になれたらと思ってつづっていたが
それが面倒になるほど良くなるどころか次から次と症状が変わり
その都度、右往左往してここに症状をつづっていた
排便障害と薬の離脱症状もすごかった
基本的にオピオイド系の薬は本当は飲みたいけどやめた
今も飲めば多少は楽だろう
根本的治療は望めず、薬で対処するだけ
今も2年待ちの有名痛みセンターへ通い、有名な先生に
「で、最近はどないですか?」と言われ
あれやこれやと聞いてもらうだけで終わり
最近は右足と腰まわりの感覚がおかしいので検査をしたら
ギランバレー陽性の数値だったとか
これは一度なったらそのままの人も多いらしい
自分はギランバレーも併発していたであろうことが今更わかる
幸い完全下半身麻痺から不全麻痺まで1年で回復して今はなんとか自立歩行しているが
かけっこ、スキップ、片足立ちもできない
毎朝起きてから寝るまでの腰から下の異常感覚と電撃通、股関節、陰部まわりの突っ張り、圧迫
もう毎日違うので慣れようがない
それどころか老いてくれば健常者でもどこか意味もなく痛くなるわけだが
自分はもうすでに色々と痛いので老いのせいも重なっていてさらにきつくなってくるわけだ
最近は歩きづらいことこのうえない
ふらつきも半端ない
しかし、周りから見たら普通に見えるから仕事ではみんな好き勝手言ってくる
家族旅行も実は歩くだけで地獄の人間には試練だが
動けるうちに家族で行っておきたいと必死でついていっている
もうまる7年、今年58歳になる。あと何年、この身体と生きていくのか
悪くなる一方でいつかは歩けなくなるのか不安と痛みはつきない
娘があと2年で大学を卒業する
ちゃんと納得のいくところに就職できたら
パパもいろいろと引退させてほしい
とにかく生きるだけで痛い、痺れる、つらいってのが本音

