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私は、お墓には人の一生が凝縮されていると思っている。

死人に口無しということわざの通り、人は死んでしまえば何も語れない。

死後の魂が存在するとすれば、死んだ後に何を思っても、それを伝えることは出来ないのだ。

その人の生涯が幸福であったか、悔いのない人生であったかを知る術は、遺言を残していなければ生前言ったことや事績を辿ることだが、それすらも残っていない人は、お墓がいろんなことを教えてくれる。

今回、渡辺守綱という戦国時代から江戸時代初期を生き抜き、現在まで続く家系の始祖のお墓をお参りして、所感を残そうと思う。私との共通点もあり、好きな武将の一人だ。

・共通点

①地元出身であること。渡辺家は徳川家の聖地、三河・岡崎の土豪出身で、徳川家の前身である松平家からの家臣である。

②我が家と同じ宗派であること。三河地方は一向宗(浄土真宗)の盛んな土地で、渡辺家は特に熱心な家であった。

・好きなところ

①槍を使わせれば無類の豪勇の武者であること。通称が半蔵であることから槍の半蔵と呼ばれ恐れられた。

②一向宗に熱心であり過ぎた為に三河一向一揆で一揆側に加担し家康に背く。しかし、家康に一揆を鎮圧された後は忠実に戦場働きし多くの戦功を重ねる。

侍大将としては優秀だが、城持ち大名になる器ではないという評価もあるが、察するに、一揆後に帰参を許されたことで渡辺守綱は政治向きなことは一切口にしないことにして、行動指針の一切を家康に委ね、ただひたすらに槍働きで恩返ししようと考えたように思われる。もっとも徳川家の場合、大将の家康が卓越した思考力、政治力を持っていた為、命令に不服が出ることはなかったのだろう。

思考の転換したことで家康から多大な信頼を得て、晩年の70歳になって家康の9男義直の軍事顧問となり、尾張徳川家の基礎固めに貢献した。家禄は最終的に1万4千石を与えられて、三河寺部陣屋をかまえることになり、79年の生涯を閉じた。長男・重綱によって墓と社が建てられ、更に三代・治綱が渡辺山守綱寺に発展させた。一族に囲まれた墓地の中心に眠る。

念願叶わず無念のうちに生涯を閉じる武将、人々がほとんどを占める中にあって、渡辺守綱の一生は幸福であったといえるのではないか。

*もっと詳しく知りたい場合は、「半蔵流嵯峨源氏・渡辺氏-史跡を訪ねて-寺部陣屋」で検索するといいですよ。おススメです。