10か月ぶりのブログ更新となった。
2015年5月に一念発起してブログ開設したのだが、飽きっぽい性格なのでどうしようもない。
今回久しぶりに更新する気になったのはスマホのアプリを見つけて、いつでも簡単にブログを見たり書いたり出来ることを発見したからである。
ブログはパソコンを立ち上げてするもの、という固定観念があって、なんかめんどくさいってなっていた。
でもスマホで好きなタレントのブログを簡単に見れるようになって、自分も書きたいという思いが湧き出てきた。人に見てもらうことは意識せず、自分の心にある感想を脳の思考で整理して、考えていることをわかりやすくまとめられたらいいと思っている。
前回に続きブログのテーマであるお墓参りについて、大和の国、奈良市柳生の里で柳生一族のお墓をお参りした時の感想を書く。
柳生一族のことを詳しく知りたいと思ったのは、自分とのいくつかの接点があるからだ。
①自分が学生時代を過ごした奈良の武将、剣豪である。
②自分の出身地愛知県にゆかりのある柳生一族の系統がある。
③一人の人間として考え方、生き方において見習いたいことが多くある。
柳生一族は考え方に一本の明確な柱がある為に、特筆すべき人物を多く輩出し一族の繁栄に繋がったと思う。その中で特にカギを握る人物にスポットをあてつつ、人生の参考にしていこうと考える。
1)柳生宗厳(やぎゅうむねよし 1527-1606)
柳生の里の小領主だった柳生家を新陰流の剣豪として名を轟かせ一族繁栄の原点になった人物である。上州(群馬県)出身の伝説的剣豪・上泉信綱の弟子となり新陰流の免許皆伝印可を受け後継者となり、一般的には柳生新陰流と呼ばれるようになった。剣豪で有名なために剣の使い手というイメージが強いが、特徴は無刀取りと言われる素手で相手の刀を奪い動きを封じることを極意としている。無用な殺生をせずに素手で屈服させることで、天下泰平を望んだと思われる。
2)柳生宗矩(やぎゅうむねのり 1571-1646)
宗厳の5男で後に徳川将軍家の兵法指南役となり、3代将軍家光の信任を得て大和柳生藩1万2500石の大名となり、柳生新陰流(江戸柳生)の地位を確立した人物である。
映画「柳生一族の陰謀」で俳優の千葉真一が演じて話題となった十兵衛三厳(じゅうべえみつよし 1607-1650)の父。
1585年に豊臣秀吉の弟秀長が大和に入国し太閤検地を実施した時に隠田を摘発され、柳生家の所領は没収され一族は浪人となった。この時奈良に住んでいた近衛前久に寄食した。
1594年、見かねた黒田長政が宗厳、宗矩父子を徳川家康に謁見の場を設け、御前で柳生新陰流の無刀取りを披露した所家康に認められ、宗厳に柳生の庄500石、宗矩は200石で家康直臣として仕えることになった。その後関ヶ原合戦に出陣、大和の治安維持にも貢献した功績により太閤検地によって失領した大和柳生2000石を取り戻し、2代将軍秀忠の兵法指南役となった。
その後は前述したように3代将軍家光に信頼され、幕府初代大目付となって老中、諸大名を監察することになった。大目付を任じられたことを現代に置き換えるなら警察と司法権を握ったようなもので、宗矩の幕府における権勢を推し量ることが出来る。
しかし後の柳沢吉保のような所領の大幅な加増はなく、宗矩は私利私欲に走らず無刀取りの精神であくまで天下泰平を願っていたと考えられる。その考えは僧侶である沢庵和尚との友情から剣禅一致を提唱した新しい兵法思想を確立し「兵法家伝書」にまとめられた。
所領没収の憂き目にあいながらも自分の技術を磨き上げ、また考え方においては剣術の精神から人生訓、国家運営法に発展させ社会に必要とされる唯一無二の存在となったことは、百姓から天下人に上り詰めた豊臣秀吉の立身出世以上に尊いものではないだろうか。その後の子孫繁栄がこのことを証明しているように思われる。特筆すべき3人目の人物、柳生利厳については次回に続く。