歴史上人物のお墓参り28 奥平貞治 関ヶ原町 | nao7248のブログ

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前回、奥三河の世渡り上手な一族奥平氏を少し紹介した。世渡り上手という表現を使ったが、奥平氏は大勢力の狭間を生き抜く為に多くの犠牲を払っており、決して上手いことやった的な軽い決断ではなかったであろう。適切な言葉が見つからないことお許し頂きたい。
とにかく信州の真田氏と境遇と判断、行動が似ていて比較すると一層興味深いのですが、今回は奥平貞勝(1512-1595)の三男・貞治(?-1600)のお墓参りに行って来た。
元亀4年(1573)武田信玄の死を確信した長兄・定能(1537-1599)に従い、父・貞勝 次兄・常勝と袂を分かち武田から徳川に帰参した。その結果武田軍と接する最前線に身を置くが、兄の長男・信昌(1555-1615)を補佐して寡兵ながら援軍が来るまで持ち堪えた。
天正14年(1586)に秀吉の黄母衣衆となり、5000石の直参となった。信長の後継者として確固たる地位を築いた秀吉は他家の有力かつ有能な人材を直参として召抱えようとした時期で、貞治は甥・信昌に従属する立場だった為、両者ともうれしい話だったのではないだろうか。
秀吉の引き抜き作戦では上杉景勝(1556-1623)の謀将・直江兼続(1560-1620)を直参にしようと持ち掛けた逸話が特に有名である。ただしこの時は主君景勝とは兄弟や親友を越えた堅い信頼で結ばれており、兼続はこの申し出を即答で断った。しかし秀吉は上杉家を会津に移封した時に兼続に米沢30 万石を与えた。流石の秀吉も上杉家の聖地越後を配置換えするのは気が引けたのか、家康を三河から関東に移封した時と同様加増というボーナスをねじ込むことで文句を言わせなかった。
これに似たような逸話は多いが、貞治のような両者にハッピーな関係になったのは少ないかもしれない。(あくまで個人的見解です)
慶長5年(1600)6月、会津征伐へは家康に同行して結城秀康(1574-1607)付けを命じられた。秀吉直参衆で貞治程度の者は大阪城の豊臣秀頼(1593-1615)に近侍する公達グループには入れず、五大老(この場合は家康)の指示で大名の与力として加勢する者として扱われたと思われる。
石田三成(1560-1600)が挙兵すると結城秀康与力の任を解かれ、大阪勢との決戦に向かう。
決戦の地関ヶ原では小早川秀秋家老・平岡頼勝は縁戚の黒田長政から打診され家康への内応を決めていた。(No.19 平岡頼勝の回を参照)
家康はこの内応を確実にする為に貞治を軍監として小早川陣中に送り込む。
9月15日、秀秋は開戦後の三成方の奮戦に気持ちが揺らいだが正午過ぎに味方陣地への突撃を決断した。ここで軍を指揮する松野主馬(?-1655)が秀秋の裏切りを不服として戦線を離脱した為、軍監の貞治が先鋒大将を代行した。対する三成方の大谷吉継(1565?-1600)と平塚為広(?-1600)の決死の防戦により苦戦を強いられるが、貞治は乱戦の中自ら白刃を振るい兵を鼓舞し続けた。
驚異的な戦いを見せた大谷隊であったが午前中から続いた戦闘の末に力尽き、小早川隊が撃破した。この大谷隊の崩壊が三成方の敗北を決定的にした。
思わぬ形で小早川隊を指揮することになり図らずも自ら先頭に立って大谷隊と激戦を演じた貞治は、戦いで負った傷によって戦後間もなくして死去、家康はその死を悼み子のいない貞治に報いる為にその生母に供養料300石を与えた。
松尾山城跡 小早川秀秋陣跡の説明板
合戦の両軍配置図と古戦場を眼下に見る。
ここで秀秋、頼勝が戦況を注視していた。
関ヶ原主戦場から北に2km位の場所にひっそりと佇む奥平貞治の墓所
右にある自然石の墓石が江戸時代末期に末裔が建立したもの。
その後大正になって中央の立派な石碑が出来た。
その後の奥平一族の武勲を大いに高めることとなったのではないだろうか。