さようなら ティムール、いつまでもチームメイト
国際テニス連盟での担当する私の活動フィールドは、アジア48の国と地域。東は太平洋の日本から、
西は地中海のレバノン、南はインドネシアから北はカザフスタンまでと、あまりに広いアジアなので、
東アジア、東南アジア、南アジア、西アジア、中央アジアの5地域に分けています。各地域ごとに
最も信頼のある優秀なオフィシャルを地域代表に任命し、ワーキングチームとして活動しています。
左からティムール、ワナウィット、私、アシュラフ、ニティン、陳(チェン)
チーム最年少でもある、ウズベキスタンのティムールが、心臓発作で、先週この世を去ってしまった。
わずか、32歳。 彼は昨年結婚し、8月に子供が生まれたばかりで、幸せは、これからだったのに。
親友として、こんな早い別れ方があるなんて、やり場のない悔しさと、命の儚さを感じてしまう。
やりたかったこと、やり残したことは、山のようにあるだろうが、今となって、彼は幸せな日々を
送ることができていただろうか・・・、充実した活動をさせてあげたのだろうか・・・考えてしまう。
プロテニスは皆無だった中央アジアの国々を1995年頃から、大会設立、テニスコート施設のの改善
大会スタッフの育成、審判育成をゼロから立ち上げ、中央アジア諸国のテニスに東奔西走してくれた。
中央アジア5ヶ国である、ウズベキスタン(左下)、キリギスタン(右下)、カザフスタン、タジキスタン、
トルクメニスタンで、一緒に審判育成を行った日々をあらためて思い出す(両写真、両端)
自ら次のステップを考え、審判を引退し、後身の指導や労働条件の改善に地域の発展に力を注ぎながら、
各国での折衝で苦労と努力を重ね、中央アジアの隣国関係の難しさの中で一生懸命に働き続けてきた。
その結果、審判の労働条件、大会の運営状況、テニス施設を大幅に向上させたのが、ティムールだった。
26歳でWTA大会(タシュケント)のアシスタント・ディレクターに抜擢されるなど、中央アジアのテニス界に
必要不可欠な人材だっただけに、なんとも言えない悔しさと、悲しみが込みあげてくるのは私だではない。
ティムールとは、意気投合する時もあれば、意見が真向から対立した時もあった。今から考えれば
そんな時、本当は何を伝えたかったのだろうか?彼の意見を正面から受け入れるべではなかったのか?
と、彼のメッセージを軽率に扱ってはいなかっただろうか・・・と、そんな自分に対し、怒りさえ感じしまう。
彼には、この15年は激動の時間であっただろう。飛び回った行き先が、難しい旧ロシア諸国。新興国には、
組織の難しさ、スポーツ界マフィアの影がチラつくなど、日本では非日常的なことが、あたり前のようにある。
プレッシャーは増長し、ストレスは尋常ではなかったことは、日頃の話で知っていた。それを、持ち前の
豊かな発想と、常に動き続けられるほどのエネルギーと行動力があるだけに、オーバーフロー気味に
走り過ぎてしまっていたのかもしれない。
残された家族に幸せが訪れるように、残された我々から何かお手伝いできることを考えたい。
いままで、本当にありがとう。