- 96年~98年 -

前述の MCFAJ のレース日、共に決勝を終えてパドックで話をしていると、その友人は来年度は RS を新車で買ったので、この TZ は売りに出す との話が。

資金を考えるよりも早く、nao の口からは買った!!! という言葉が。

その時は
もしかして俺が遅いのは SP250 が自分に合っていないだけで、GP250 に乗り換えればビアッジも越えられるのでは?
という自分の実力を SP250 のせいにするという暴挙で GP250 へのスイッチを決定。
96年11月より 95TZ250 で練習開始。
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参戦レースは下心たっぷりで表彰台に乗るつもり満々で MCFAJ N250 クラスに。

しかしその段階でMCFAJ所属チームは決まっておらず(当時の MCFAJ は個人登録は出来なかった)チーム関係にも不審を抱いていたので名前だけ借りる形で登録し個人活動開始。

やはり現実はそんなに甘い訳無く、機械的にも難しい TZ250 に完全に遊ばれている状態で全然セッティング出来ず。
ピストン突き出し??タイヤのコンパウンド??なにそれ?どうすればいいの??状態の上、富士のストレートではこれまで体験した事の無いスピードに完全に付いて行けない。

SP250 に比べると、ストレートではギアがもう1速余計にある感じ。
シケインでは軽くパワーリフトしフロントタイヤを接地させるのが難しい。
しまいにはエンジンもかけられない時があり(キャブセットを少し外しただけで始動性がものすごく落ちる)殆どギブアップ状態の時に運命の出会いが!

前TZオーナーの所属チーム GUST CLUB RACING の代表であり、現カオスデザインファクトリー代表の仲田氏に度々助け船を出して頂き、この時点ではチーム員ではなかったにも関わらずセッティングの相談からパドック生活の面倒まで見ていただき行動を共にするようになり次第に前年度に植付けられた人間不信とチーム拒否も消えて行き、GUST CLUB RACING へ加入。

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97年には GUST CLUB RACING にて(MCFAJ登録時期の関係で名目上は別チーム扱いだったが)MCFAJフル参戦開始。

参戦決意直後はいつになく自信が小さめで、ドンケツでなければいいな…程度に思っていたが、開幕の筑波までは走る度にタイムが上がり、決勝では4位に入る。

次戦の富士も4位に入り連続して入賞。

3戦目の富士では雨で調子を崩し入賞ならなかったが、迎えた筑波では練習段階から調子良く、自身初の2秒台を記録し2位入賞!(ただし N250 はなぜか仮表彰中止で表彰台無し)ちなみにこの時勝ったのは同じ GUST CLUB RACING のチームメイトでチームとしてワンツーでした。

そして最終戦の富士でも好調は続き、自身初の 46秒台を出し2位で初表彰台を獲得!
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そしてシリーズランキングも2位で終える。

97年、レース初めて以来もっとも順調で充実した年でした。前年度の苦労と不審を吹っ飛ばすには十分すぎたくらい。

98年は MFJ GP250 筑波にスポット参戦しつつ MCFAJ には年末の耐久に参戦。

この年、ようやく MFJ GP250 でも予選を通るようになっていたが、出走した全てがウェットレースで、雨がすごく苦手で GP250 は最高位11位と結果が残らず。

迎えた年末の MCFAJ 2H耐久。
ペアはこの年 GUST CLUB RACING より SP250 を走っていたライダーでマシンは 92NSR(MC21)。

このライダーは表彰台が狙える位置を走っていたわけでは無いので、nao としてもプレッシャーを感じる事無く楽しむ筈でした。
この時点では GUST CLUB RACING からは耐久に2台体制の予定で、もう一組は前年度の N250 チャンピオンと、この年 NP250 で1勝を挙げていたライダーのペア。

勝ち狙いはそちらに任せているはずでした… が!急遽このペアが参戦不能に。
と、同時に nao の相棒がnao さんと走るのならとやたら気合入れています。(オイオイ)

nao 達のマシンは 92NSR250 だったのですが、参戦決定から参戦までの数ヶ月の間にクランクは替え、サスも替え、ラム圧が付き、トドメに新品カウルが仲田氏により塗装されて付いてきました…この状況ではもはやお気楽参戦というわけにはいきません、GUST CLUB のワークスマシンとなって行きました。

かつて参戦していた SP250 では苦い思い出しか持って折らず、果たして GP250 からの乗り換えでマトモに乗れるのか??という不安を持ったまま筑波の練習に入ります。

練習では、まー MCFAJ にしたらね…という程度の良いタイムは記録できました。
しかしビックリしたのは相棒の方で、それまで8秒くらいしか出ていなかったのに、一緒に乗るようになって、メキメキと実力を伸ばし、気づけば6秒台!、これは… MCFAJ のレースで二人共に6秒台出せるペア何人いるんだ?もしかして入賞圏内か?と思って決勝を終えてみれば、2位入賞です。

予想外の好結果にシャンパンファイトも白熱し98年の活動を終えました。

好結果だから良かった物の、実はある練習日に決勝用のカウルを試しに問題無いか付けてみて走ってみようという事になり、そのテストライダーを nao が勤めました。
しかし…その時何が起こったのか、事もあろうに1ヘアで転倒してしまいました!
当然新品カウルは走り出して20分程度でいきなり傷物。
相棒は物凄くがっかりした顔をしていて(新品カウルにお金出して塗装してましたから…)こちらも申し訳なさでたまらなかったのですが、修正出す予定が表彰台に乗った事で、思い出の傷になるからチャラと言う事にしてくれました。

そして 98年も後半、95TZ250 は売却しました。
理由は世もラム圧が一般化し、自然吸気の95では辛さを感じていたのとタイムが伸び悩んでいた為です。


- 98年~00年 -

98年後半に YECラム圧キット付き96TZ250 を購入しました。

フルモデルチェンジによる世代落ちではなく現行と同じ形式での型落ちモデルなら俺もクリビーレを越えられるのでは?
と懲りもせずまたまたマシンのせいです。

しかし、これがとんでもない粗悪マシンで、前オーナーに騙され酷い買い物をしました。

言い出せばキリが無いのですが、エンジンは92のボロボロだったしフォークは中身が切子まみれだし、リアサスとステダンはオイルが漏れている。引き取ってピストンの突き出しだけ点検しようかと思ったら下側のピストンバラバラでした。

スペアパーツもあるといっていた物のかなりの物が足りなく、96のだと言っていたホイールは実は92のサイズ違いの細い物。

しまいには前オーナーは連絡付かなくなり残りの部品も引き渡さず雲隠れ。

この時点で 95TZ はすでに手元には無く、もうコレをどうにかするしかない状態。
さんざん手を尽くして(今ならヤフオクとかの手もありますが)中古の97エンジン、98前後サス、98マルケ、98チャンバー等を手に入れ殆ど作り直しのようなオーバーホールを得て使えるように組みました。

ただし、仕方無い事でしたがお金をかけすぎました。
結果的には新車が買える位の投資をして96を手に入れた状態です。

この年は MFJ 最優先で筑波と富士の選手権に参戦。MCFAJ は最終戦の富士のみ参戦でした。

またしても MFJ では雨のレースばかりで、筑波では全部雨。
雨は相変わらず全然ダメで、富士では唯一1戦だけが最終ラップまでドライ(最終ラップで降り出してクールダウンラップでは路面が濡れていた)のレースがあり、ここで10位でした。
残念ながらこれが MFJ GP250 の最高位となってしまいました。

そしてシーズン最終戦の MCFAJ富士に GP250 でエントリー。シーズン初のドライコンディションで、なんと最終ラップまでトップを走り3位以下の後続を大きく離すレース展開。

自分でも恐ろしいほどに余裕があり、最終ラップを迎えたホームストレートではサインボードを出し待ち受けるチーム員に視線を送り”待たせたね、今日は勝つよ!今日こそ勝つよ!!”と合図を送ります。
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1コーナーを抜け、Aコーナーに侵入する所でなんか嫌な挙動が…??続く100Rに進入しアクセルを開けた所で、モ~っとエンジンが吹けない!?まるでガス欠のような症状。

なんとか3速でアクセル全開でボヘ~っとなりながらトロトロ走る、、、エンジンは止まらないが8000回転くらいしか回らない!!
後ろを振返ると2位のライダーが猛烈なスピードで抜いて行きます。

何かしらのマシントラブル、こうなるともうどうしようもありませんでした。
それでも走れる限りは走ろうと3速8000回転で残りの距離をナラシラインで走ります。

ホームストレートに出て一番右側を追突されないように手を上げ走ります、3位以下の後続はまだ来ません、まったく見えません。
随分引き離していたし、もしかして表彰台行けるか!?との期待を込め、自身初の後ろを見ながらのストレート走行。

ゴールラインが遠い!しかし3位はまだ見えない、まだ来ない、よしゴールラインを越えた!表彰台2位は取ったよ!とサインボードエリアを見たら…チーム員が誰も居ない!??はて??

クールダウンも当然3速8000回転ですから、全員に抜かれてピットロードに戻って、遅れているから急いで表彰台に行くようにオフィシャルに指示され、マシンをチーム員に預けようとしても…やはり誰も居ない。

この日、10人以上は居たはずのチーム員は何処に??仕方ないのでオフィシャルにマシンを支えてもらいチーム員を探しに行くと、全員でレッカー車を待っていました。

なんでも、nao が1位で帰って来なかったのを確認した直後に、転倒でもしてレッカーで帰ってくるだろうとの判断でレッカー車を待っていたとか。

表彰台である事を告げ、全員で猛ダッシュ。

nao が表彰台に付いた頃には仮表彰は始まっていました、なんとかセーフって所でした。
最後までドタバタしましたが、なにはともあれ99年を有終の美で終えることが出来ました。
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しかし翌年にはフルチェンジした 00TZ250 が出て来ること、次年度も使うにはクランクケースからオーバーホールしなければならないがその予算はもう無く手元には3百万近くの借金しか残っていなかったのもあり00年の夏前に 96TZ250 は売却しました。


to be continue...