- 88年~89年 -
レースへの憧れと自分はガードナーやローソンよりも速いと言う根拠のまったく無いが岩よりも固い確信と共に先輩の紹介で当時としては破格の 10万円という低価格で 87NSR250RK をゲット。ついでにバギーの中古ツナギとスティルマーチンの中古ブーツ、何処だかわからない中古グローブもゲット。(ちなみにマシン受け取った時にはスペアパーツなんて一切無く、カウルの50%はダンボールとガムテープだったように思う…今だったらこんなの買わないな…)
その実力はフルセッティングで65馬力を可能にするというマニュアルの説明文にビビリまくりでサーキットデビュー。
実際は、新たに登場した 88NSR が SP仕様でも有に 70馬力を叩き出し、富士のストレートでF3マシンの癖に置いて行かれる始末… 88NSR の履いたラジアルの溝付き公道タイヤのほうが 87RK のバイアススリックよりグリップする現状。破格の10万円はこの辺に理由があったかと今になると思う。
しかし、そんな事はまったく理由にならないくらいサーキットでまったくマトモに乗れない自分に当初の確信は粉々に打ち砕かれる。
わずか3回乗っただけで RK を手放しレース活動終了… の筈だった。
- 91年~94年 -
89年に公道用として 89NSR250R-SP を購入。当初はサーキット活動するつもりも無く乗っていたが、次第に 今だったらレイニーも越えられるだろ?という町乗りで得た根拠の無い自信でカムバックを決意。
時に 1991年、TEAM Hole Shot を仲間内で結成。
SC250 という後の SP250B に相当するクラスで筑波練習&参戦開始 ---> 現実はそんなに甘く無く予選落ちが続く。
挙句の果てに、筑波の1コーナーでハイサイドで吹っ飛び左膝関節内骨折&靭帯損傷を含む両足、左腕の全身8箇所骨折で歩けるようになるまで半年の重症を追い一時活動停止。
復帰後、当時那須エクスプローラーサーキットで開催されていたサイクルサウンズカップにも 89NSR で参戦開始。

サイクルサウンズカップでは初めて予選を通過し決勝を走る事が出来た。
93年はサイクルサウンズカップにフル参戦し NSRクラスランキング18位。
- 94年~95年 -
94年に、新車でレースをすればマシンには不安が無く実力を発揮する事が出来シュワンツも越えられるのでは?と自分の実力を完全にマシンのせいにして 94NSR250R を新車でレース用に購入。SSフクシマのフルキットで SP250 への参戦を決意。この年、サイクルサウンズカップで共に TEAM Hole Shot で戦ったライダーの紹介もあり、Hole Shot を解散し初のショップ系チーム、MASUDA CYCLE へと移籍。
MASUDA CYCLE の枠で MCFAJ にも登録し MCFAJ NP250 にも参戦する事に。
MFJ では相変わらず予選を通過出来なかったが、MCFAJ ではそれなりにレースを出来るようになっていたのでMCFAJ 筑波のみ参戦。
94年8月の MCFAJ レース前日練習の時点で筑波でようやく5秒に入り、MCFAJ ならトップ争い出来るかも!?という期待にチーム一同で盛り上がるも、スタ前チェックに遅れ失格となる。
94年12月、MCFAJ初の耐久に MASUDA CYCLE のチームメイトであり、この年 MCFAJ で勝ち星を挙げているライダーと組み筑波耐久に 94NSR で参戦。
ドライの予選こそ中盤に埋もれるもウェットの決勝では nao の怒涛の走りで総合2位にまでジャンプアップ。
しかし調子に乗りすぎてトップに喰い付いたS字で転倒。
再スタートしピットに戻り曲がったペダル類を直し、割れたカウルをガムテープで直し、相棒にライダーチェンジ。
5位くらいまで追い上げたところで最終コーナー横向きで立ち上がりホームストレートを滑る NSR が… ここでリタイヤ。
リザルトを貰ってみれば nao の出したベストラップはこの耐久全体で2位のタイムでした。
- 95年~96年 -
結果は残らなかったものの、なぜか これなら来年はチャンピオン狙えるんじゃねえの? という結果の残らなかったレースで得た甘すぎる自信と共に 95年 MCFAJ フル参戦開始。富士を走るのはあの 88年以来という状況を完璧にナメきって富士へ。

結果はチャンピオン狙うどころか、富士ではポイント採るのが精一杯、おまけに転倒骨折も多数。
それでも勝手知ったる筑波ではここが唯一の見せ場とばかりに気合を入れるも、暫く走っていなかった為か6秒が精一杯。
結果は8位、それでも初の入賞で初トロフィーをゲット。初めて訪れたささやかな喜びでした。
この年、ランキング18位。フル参戦の難しさを知る。
- 96年~97年 -
95年を終え、速く走るためには実績のあるショップ系チームで走らなくてはならないのでは?と思うようになりレースを主体とするショップ系チームで走ればドゥーハンも越えられるのでは?という自分の実力をチーム力のせいにするというとんでもない考えで MOS RACING TEAM モスラ へ移籍。SP250B へ出走し MCFAJ には参戦しない方針を固める。
この年、チームサポートの関係で初のブリジストン(これまではずっとダンロップ)、初のカストロールを始めあらゆるマテリアルに規制と指定がかかる状態になる。
ところが、ブリジストンでは全然グリップ感が掴めず転倒ばかり。カストロールではセッティングが出来ず遅いか焼き付くかの両極端。
カウル等もCHKの物を使う必要が出るも実力が伴わないので当然実費。
資金も底をつき、タイムも低下し、さまざまな理由でチームにも信頼が置けなくなりチームからも信頼を感じなくなりシーズン後半にはチーム離脱。
人間関係の不審もあり走るのは好きでもチーム活動は嫌になる…完全に人間不信に陥る。
チームモスラ離脱後96年の MCFAJ に1戦だけ参戦した際に衝撃の事実と出会いが!
前年度、nao よりちょっとだけ遅かった友人ライダーが 96年にはクラスを GP250 へスイッチし、MCFAJ N250 でいきなり優勝したと…マジですか!?超驚きましたよ。
それまでは GP250 は SP250 を攻略せねば問題外と雲の上の存在と思っていましたから。
そして…
to be continue...