第132章 幸せ再び
御歳四歳の良仁親王の即位の儀礼は滞りなく行われ、何代か振りの幼帝の誕生であった。
関白であった堀川殿や最高齢の左大臣、この帝の曽祖父である右大臣は老齢により引退し、ガラッと入れ替わりがおこった。土御門摂関家の元大納言が、摂政となり、内大臣が左大臣、堀川関白殿嫡男、東三条殿と呼ばれる元宮内卿が右大臣に。右大将であった源常隆が内大臣となった。帝の祖父に当たる先々帝は後二条院として摂政と共に幼帝に変わって公務をこなすこととなった。
先帝はといいますと、二人の妃を連れ、後二条院の言うとおり、宇治に籠もり、第二の人生を歩むことになった。
東宮は幼帝の弟宮であり、後二条院に引き取られ、二条院にて大切に育てられることとなった。彩子は一時二条院に入り、後日和気家に返されることになっている。相変わらず泰明は典薬頭として幼帝担当になり、毎日忙しそうに働いている。御世が変わったからか、泰明は生き生きと働き、典薬寮の者たちも泰明を目標としてのびのび働いている。泰明の姉明日香と、智明は典薬寮に辞表を出し、大和の国医師として里に帰っていった。泰明の甥で智明の息子智也は都に残り将来大和の国医師になるため、まだ元服はしていないが、泰明の弟子として典薬寮に入り修行をしている。彩子の父元大和守は辞意を示し大和守をしている彩子の弟のところに身を寄せることとなった。皆がみなあるべきところへ戻り、都は平穏無事に時間が過ぎて行った。
即位に伴う儀礼や異動が落ち着いた頃、いつもどおりに仕事をこなしている泰明はいつもと違ってにこやかな表情で内裏より典薬寮に戻ってくる。
「いよいよですね。頭殿。」
「あ、助殿。早く夕刻にならないかと待ちきれないのです。」
典薬寮の者たちばかりではなく、内裏でも左大臣をはじめ様々な要職の者たちからも同じように声をかけられる。今日はいよいよ彩子が泰明のもとに戻ってくる日である。院によって二人にとっていい日を選び、泰明はこの日を指折り数えて楽しみに待っていた。彩子も同じで、院との子、綾子や誠仁と共にこの日まで過ごしていた。先帝との子博仁はすくすくと育ち、東宮として院や鈴華のもとで大切に育てられている。あの先帝との子とはいえ、彩子はこの宮をたいそう可愛がり、彩子にとてもなついている。この宮たちと別れるのは心苦しいが、泰明のもとには彩子と泰明の子泰大がいるのである。
「お母様、次はいつ会える?」
「綾子、いつでも下賀茂の和気邸にいらっしゃい。同じ年頃の姫がいるのですよ。」
「うん。今度、寂しくなったらお母様に会いに行くから。この前お母様に会いにきていた方が、お母様の好きな人なのでしょ。お父様も素敵だけど、あの典薬頭様も素敵な方よね。」
「まあ、綾子ったら。いつでも遊びにきなさいね。」
彩子も夕刻になって泰明が二条院へ迎えに来るのを心待ちにしているのである。
先日泰明は彩子を迎える打ち合わせのため、この二条院にやってきていた。院は彩子に止められながらも、あまり飲めない酒を、泰明も普段いつ呼び出されてもいいように酒を飲まないのだが、この日に限っては二人で酒の酌み交わし、楽しそうに打ち合わせを兼ねた宴会を催していた。院や泰明のほか、鈴華や彩子も同席して楽しそうに歓談する。
「お父様、お母様・・・。」
綾子がちょっこと顔を出し中の様子を伺っている。
「綾子か。お婆様と遊んでいたのではないの?」
「あのね、お婆様のお部屋から久しぶりにお父様の楽しそうなお声が聞こえたから。」
「そうかそうか、おいでおいで・・・。」
院は綾子を膝の上に乗せると、微笑み泰明に紹介する。
「この子は私の五の姫宮綾子だ。彩子の初めての子だよ。」
泰明は姫宮の頭を下げ、微笑む。
「綾子です。おじさんだあれ?」
「私は典薬頭和気泰明と申します。お目にかかれて光栄にございます。」
綾子は不思議そうな顔をして院を見つめる。
「お父様、典薬頭って?」
「お医師様の中で一番偉い位の方だよ。この父と新帝の担当侍医なのですよ。今度綾子の母様が再び嫁がれるのだ。この父よりもこの方が母様は好きなのですよ。」
「ふ~~~ん。でも素敵な人ね。綾子もこんな人と結婚させてね。」
「そうだね。綾子は可愛らしいからきっと素敵なお相手が出来るよ。」
綾子は院の膝から離れると、手を振って部屋を離れる。
「本当に院と彩子様に似て可愛らしい姫宮様で・・・。伊勢斎宮になさるなどもったいない・・・。」
「んん・・・。今となっては伊勢にやることは悩むところだが・・・。さて、例の件の話をしないとな・・・。」
院はぐいっと酒を飲み干すと杯を置き、泰明の側に詰め寄る。
「さて、ほんとに長い間待たせたね。新しい御世になり、これで彩子を泰明殿にお返しできる。この数年の間、泰明殿は浮気一つせず、彩子を待っていたそうだね。ほんとになんと言っていいか・・・。」
「いえ、院と彩子様とお約束をしましたから・・・当然です。」
「本当にあの馬鹿な息子に振り回されてしまった。すまない。彩子をお返しする日、どのようにすればいいかな・・・。」
「典薬寮からの帰りにこちらに寄り、お迎えにあがります。荷物などは必要ありません。以前のものはきちんと置いてありますし、身一つで来てくだされば・・・。」
「ほんとにいいのか?彩子もそれで?」
彩子はうなずき、泰明を見つめて微笑む。泰明も頬を赤らめながら、彩子に微笑む。この日は夜遅くまで酒を飲み交わした。
彩子は夕刻まで我慢が出来ず、壷装束に着替え、泰明からもらった一番の宝物を懐に入れて数人の侍女を連れ外出する。院は見て見ぬふりをし、遠目で微笑みながら見送った。二条院から大内裏まではすぐそこであるが、典薬寮は大内裏の西側に位置しているので、結構な距離がある。彩子は高鳴る胸の鼓動を感じながら、大内裏の門を入っていく。彩子はふと最近まで住んでいた内裏を見つめると、溜め息をついて先を急ぐ。典薬寮の前に着くと、侍女の一人が、泰明がいるか確認に走った。侍女は急いで走ってくる。
「彩子様、ご不在のようでした。急用で宮内省や内裏へ行かれたようです。」
彩子は残念そうな顔をしてその場にしゃがみこんだ。
「彩子様、大丈夫ですか?」
「うん・・・ちょっと立ちくらみしただけよ。」
すると遠くからこちらに向かって走ってくるような足音がする。
「大丈夫ですか!どこか悪いところがあるのですか!」
息を切らしながら泰明が走ってきたのである。泰明は彩子の前に立つと、しゃがみこんで様子を伺う。
「ん???」
泰明は彩子の香のにおいに気づき、顔を赤らめて彩子に声をかける。
「彩子様、どうしたのですか?それ以前にどうしてここに?」
「早く泰明に会いたかったから・・・。」
泰明は溜め息をついて、彩子を抱き上げる。
「あれ?泰明左腕???」
「彩子様のために一生懸命治したのですよ。なんとか彩子様を抱き上げるまでに回復しました。」
「そう・・・。でも、みんな見てるよ・・・。」
彩子は顔を赤らめて泰明の胸にうずくまる。
「いいのです。皆に彩子様が私の妻だって見せつけたいくらいです。しかし彩子さまは私の妻であるけれども、院の女御、先帝の皇后。そして帝、東宮のご生母であられるのに・・・。このようにうろついては・・・。まあそういうところが彩子様ですが・・・。」
泰明は微笑んで、自室に彩子を運び入れる。もちろん普段堅物の泰明が女君を抱き上げて部屋に入っていくのを見て大騒ぎになる。彩子の侍女は泰明の部屋の前できちんと座って待ち、彩子と泰明は二人きりとなり、彩子の被っているものをとる。一方泰明の部屋の前では、典薬寮の者が、彩子についていた侍女に声をかける。
「あなたたちはどこの縁のものですか?」
「わたくしたちは二条院縁のものです。それが何か?」
「ということは?????中におられる女君は???」
典薬寮のものは驚き腰を抜かす。
「で、では・・・・先帝の皇后・・・・。今上帝のご生母様????」
「はい。本日からは和気様の北の方ですけれど・・・。」
侍女たちは微笑みながら典薬寮の者をあしらう。外のやり取りが聞こえたのか、泰明と彩子は笑いをこらえる。
「彩子様、もう少ししたら終わりますから・・・。待っていてくださいね。」
「はい。」
書き物をしながら、泰明は色々彩子に聞く。
「先程はどうかしたのですか?あのようなところで座り込まれて・・・。」
「ん?ちょっと立ちくらみがしたの・・・。」
「ちゃんと食べて寝ていますか?」
「ん?んん・・・。」
「後で診て差し上げますから。」
彩子は微笑みながら仕事中の泰明を見つめる。時折視線を気にしてか、泰明が顔を赤らめながら彩子の顔を見る。
「やめたやめた!」
泰明は筆を置き、文机を片付けだした。
「どうかしたの?」
「彩子様がいて彩子様の事が気になってね・・・。明日続きをするよ。」
「明日休みじゃなかったっけ?」
「あ、じゃあ明後日するよ。急ぎじゃないからね・・・。さあ、二条院によって帰るとするか・・・。早く院にご挨拶して邸でゆっくりしたいから・・・。」
彩子はうなずくと、泰明は荷物をまとめたあと、彩子の頭に衣を被せる。すると表で声がする。
「典薬助でございます。今上帝御生母彩子様にご挨拶をさせていただきたく参りました・・・。」
泰明と彩子は顔を合わし苦笑すると、泰明はとりあえず、典薬助を部屋に入れることにした。
「彩子様、そのままの格好でいいと思いますよ。今上帝や東宮のご生母であっても、殿上人である私の妻だし・・・顔を見せる必要はないと思います。適当に返事をしていれば・・・。」
「んん・・・。」
「助殿、入っていいですよ。」
典薬助丹波は扉を開け、彩子に対して深々と頭を下げると、頭を下げたまま、挨拶をする。彩子は苦笑して、返事をする。
「ご丁寧なご挨拶、こちらこそ恐縮してしまいます。わたくしは今上帝、東宮の母でございますが、こちらにいる和気泰明様の妻。わざわざご挨拶など必要はございませんのよ。」
「そうですよ、助殿。筋違いというもの。私の北の方ですので、取り入っても何もありませんよ。今上帝の後見は右大将殿が、東宮の後見は院がなさるのだから・・・。さて、助殿。今から二条院に参りますので、早退します。明日も休みを取っていますので、あとのことを頼みましたよ。さ、彩子様行きましょう。」
二人は立ち上がると、頭を下げ続けている典薬助の横を通って、退出する。藻壁門まで歩き、待たせてあった、和気家の車にまず彩子を乗せ、泰明も乗り込む。早々と退出してきた上に、女君を連れて乗り込んだ泰明を見て従者は不思議そうな顔をした。
「勇人、何している。二条院に向かってくれ。」
「は、はい!」
車が動き出すと、泰明は彩子が被っているものをはずす。
「暑いでしょうに・・・・被衣ではなく市女笠にすればよかったのに・・・。そんな格好をしているから立ちくらみをするのですよ。本当にいつも突然典薬寮の私のところにやってくる・・・。もし間違いが合ったらどうするおつもりですか?」
「そうね・・・。ごめんなさい・・・。」
異様に素直な彩子を見て泰明は微笑み彩子を引き寄せる。
「今度来るときは文をよこしてからにしてください。そうしたら表で待っていますから・・・。どうせ今日も院に許しを得ず来たのでしょう。もう・・・。」
彩子は泰明の胸にうずくまり二条院に向かう。
二条院に到着し、彩子は部屋へ着替えに戻る。泰明は二条院の者に誘導され、院のいる寝殿に通される。
「泰明殿早かったね。彩子とは会えたの?」
「はい。院は知っておられたのですか?彩子様が出て行かれたのを・・・。」
「もちろんだよ。彩子のことだから、きっとそういうことをするだろうと、うちの門衛と、大内裏の衛門のものに言っておいたのですよ。」
「だからですか、典薬寮まですんなりと入ってこられたのは・・・。」
院は微笑んで、泰明と歓談していると、着替えを終えた彩子が入ってくる。
「院、大変お世話になりました。小さな宮達のこと、よろしくお願いします。」
「え、もう出るの?もう少しゆっくりすればいいのに・・・。ああ、すまんすまん。早く帰って久しぶりに二人っきりで過ごしたいのだね・・・。さあ行きなさい。また何か足りないものがあれば、言いなさい。また遊びにおいで彩子。」
「はい・・・。」
彩子は今までの辛い思い出や楽しい思い出を思い出しながら涙ぐんで院に頭を下げ泰明と共にお世話になった二条院を後にする。車の中では、二人寄り添い、和気邸まで沈黙が続いた。和気邸につくと、懐かしい顔ぶれが彩子を出迎える。
「お母様お帰りなさい!」
ひとまわり大きくなった蘭が彩子に飛びつき満面の笑みで迎えるが、御歳3歳になった泰大は乳母の後ろに隠れて出てこないのである。泰明は泰大を抱き上げて言う。
「泰大。お前は覚えてはいないだろうけれど、お前の母上様だよ。やっと帰ってきたのだよ。」
「母上様?」
彩子は大きくなった泰大を見て涙ぐむ。
「あんなに小さく生まれた泰大がこんなに大きくなったのですね・・・。」
「ああ・・・。さあ、泰大。母上様に甘えておいで。」
泰大ははじめ不思議そうな顔をしていたが、何か感じるものがあるのか、彩子に飛びつき、満面の笑みで笑うのである。
「ごめんね。泰大。今まで放っておいて。これからはずっと一緒だから・・・。」
「うん!絶対だよ。母上。」
「ええ。」
彩子は微笑み、泰大をぎゅっと抱きしめる。
「母上様痛いよ。」
「ごめんね・・・。さ、寝殿に参りましょ。」
彩子は蘭と泰大の手を引き泰明と共に寝殿に入る。
夜になり、彩子は蘭と泰大を寝かしつけると、泰明の部屋に入る。泰明は明かりの下で何か書物を読んでいたが、彩子が入ってきたのに気が付くと急いで書物をなおし、立ち上がって、彩子のもとに近づき彩子を抱きしめる。やはり泰明は彩子の立ちくらみが気になるようで、彩子に話しかける。
「貧血なのかな・・・。彩子は帝をお産みしてから倒れやすいからね・・・。」
「ううん・・・原因はわかっているから。」
「原因?」
彩子はこの場で話そうかどうか悩んだが、いずれわかることとして、話すことにした。
「誰にも言っていないのよ。私懐妊しているの。」
「え?もしかしてあの方の?」
「うん。康仁院・・・。譲位された時に気づいたの。周りの者たちは譲位や即位やで忙しくて気づいてないのよ。はじめは悩んだのだけれども、いいの。これからは泰明が側にいるから。」
泰明は少し困った顔をしたが、意を決したようで彩子に言う。
「彩子。ではその子は私の子として育てよう。あの憎い康仁院の子であろうとも、彩子の子であるのには違いないのだし・・・。」
「それでいいの?それで・・・。」
「ええ・・・。構いません。生まれてきた子が男であれ女であれ、この私が責任を持って私の子として育てましょう。」
彩子は泰明に身を預け、泰明も彩子を抱きしめる。
「あ、彩子。診てあげるよ。寝所に横になって・・・。」
彩子はむくれた顔で泰明をにらむ。泰明は予想外の表情に驚く。
「ホント、泰明って仕事人間よね。医術のことになるとほんとに・・・・。まあそういうところが泰明なんだけど・・・。」
彩子は満面の笑みで泰明を見つめると、泰明は顔を赤くして少年のように照れ笑いをする。
「診察は後回しにして・・・・。」
「ん・・・んん・・・・。」
泰明は彩子のおなかを気遣いながらくちづけを交わす。二人は見つめあいながら、約束をする。
「彩子、今度は何があろうとも彩子を離さないよ・・・。」
「ほんとに?信じていい?」
「当たり前じゃないか・・・。もう怖いものなんていないよ。権力にも屈しない。信念を貫くだけ・・・。」
「じゃあ信じているわ。都いちの旦那様・・・。」
泰明は満面の笑みで彩子を抱きしめ、彩子も泰明の胸にうずくまる。
「今度こそ都いち、幸せな夫婦になろう。色々辛いこと、苦しいことを乗り越えてきたのだから・・・私たちの愛は最強だよ。」
「そうね・・・。」
二人はこの先どのような障害があろうとも離れることはなく、この先子供たちや孫たちに囲まれて幸せに最後まで寄り添ったのでした。
《完》
《作者からの一言》
やっと完結させました。長ったらしい内容でしたね・・・。
次からは番外編を・・・。
短編で、泰明と彩子の子供の話をします。
その後は現代版番外編を・・・。
しつこいですが、よろしくお願いします。