第84章 帝の静養
熱が下がった後、帝は静養のため内裏を出て今は右大将邸であるが、生まれ育った二条院に入る。もちろん帝の付き添いとして綾乃もついてきている。熱が下がったといってもまだ体力が戻ったわけではなく、立ち上がるとふらついたり、長時間立っていることができない状態である。またあまり食事を摂ることができなかったので、見た目は普通なのだが、体が相当痩せてしまった。帝の母宮は相当心配した様子で、綾乃とともに付き添っている。
「雅和・・・こんなに痩せてしまって・・・。こちらでは気を遣う必要はありませんよ。堅苦しい役人たちはいないのですから。いつまでかかってもいいのですから綾乃と一緒に完全な体に戻しなさいね。」
「母上・・・。」
綾乃に支えながら座る。帝は懐かしい庭を眺めながらため息をついて、綾乃に言う。
「康仁たちには病はうつらなかったのだろうか・・・。」
東宮と姫宮は帝の病が移り発症したのだが、まだ小さく母体から受け継いだ免疫力が体に残っていたので熱が出た程度で、軽く済んだようである。それを知った帝は安心して、微笑んだ。すると部屋の扉のところで小さな男の子が覗き込んでいた。
「まあ博雅、こちらに来てはだめと言ったでしょう。」
博雅という小さな男の子は母宮の言葉に驚いて泣き出した。すると帝は手招きをして博雅を呼び寄せる。
「大きくなりましたね、博雅君・・・。いくつになりましたか?」
と帝は微笑んで言うと、母宮の後ろに隠れて博雅は言う。
「五つ。お兄さんは誰?」
母宮は博雅に言う。
「失礼ですよ博雅君。この方は帝ですのよ。」
「母上、いいのですよ。博雅君、私はあなたの兄上です。仲良くしてください。」
博雅は満面の笑みで答える。
「うん!僕に兄上様がいたの知らなかったよ。妹はいるけど。早く元気になられたら遊んでくれますか?」
「いいよ。博雅君と遊ぶために早く体を治さないとね・・・。」
博雅は帝と指きりをすると、喜んで母宮とともに退出して行った。
その日から博雅は帝である兄のために毎日のように花を届けたり、庭で捕まえた鈴虫などの秋の虫を見せたりする。帝はとても喜んで思ったより早く元気になり、立ち上がって庭に下りて散歩したり、すのこ縁に座って龍笛を吹いたりした。綾乃も予想以上の回復に驚く。
ある日博雅は帝の部屋にやってきていう。
「兄上。僕と一緒に蹴鞠をしようよ!さあ早く!」
博雅は帝の手を引くと帝は喜んで立ち上がって言う。
「博雅、この直衣じゃ蹴鞠はできないよ。狩衣に着替えるから待っていて。」
「うん!待っているね。早く来てね。」
帝は母宮の制止を振り切って狩衣に着替えると庭に出て久しぶりに蹴鞠をする。もう何年ぶりだろうか・・・。元服前までよく帝の兄である中務卿宮と一緒に蹴鞠をして遊んだものだ。久しぶりなのでうまくできなかったが、慣れてくると博雅に加減をしながら一緒に楽しんでいた。綾乃と母宮は微笑みながら見つめていた。
「お母様、病後の体力づくりにいいじゃありませんか・・・。」
「そういえばそうですね・・・。ずっと寝ておられたので・・・。」
「雅和様は蹴鞠もお上手だったのですね・・・。」
「ええ、雅孝親王様がお得意でしたからね。一緒にしているうちに身についたのでしょう。」
「中務卿宮様が?」
「そうです。雅和が馬に乗れるようになったのも、弓矢ができるようになったのも宮様のおかげ・・・。あのような雅和の顔を見たのは久しぶり・・・。綾乃もそうでしょ。」
「そうですね・・・。子供のころの雅和様・・・。天真爛漫で・・・いつも笑っておられました・・・。あの頃が懐かしいですねお母様。」
母宮は微笑んでじっと二人を見つめている。すると右大将が二条邸に戻ってきて、帝の蹴鞠をしている姿を見て驚く。
「ずいぶん元気になられましたね・・・。これで安心です。帝はあのような笑顔をされるのですね。」
と右大将は綾乃の隣に座って言う。
「殿、あれが雅和の本来の表情なのです。もう何年ぶりかしら・・・。」
博雅は右大将に気がつくと、蹴鞠をやめ右大将のもとに走ってくる。
「父上!お帰りなさい!」
「博雅、上手になったね。」
「うん!兄上とてもお上手なの。今度馬にも乗せてくれるって!いいでしょ!」
右大将は博雅の頭をなでてうなずく。帝は程よく流れる汗を拭いて、綾乃の側に来ると、満面の笑みで楽しそうに話した。楽しそうに話す帝を見て綾乃は微笑んだ。
(雅和様があのまま中務卿宮としてこの二条院にいたら康仁とこのようにこの庭で蹴鞠などをして遊ぶのかな・・・。)
と綾乃は思う。
ある日帝は前に博雅を乗せ、馬に乗って都の外へ出かける。もちろん護衛として右大将も休みを取り側につく。博雅は楽しそうに馬上から見える景色を眺めながら珍しくおとなしくしている。
「ちょっと紅葉の季節にはまだ早かったようですね・・・。右大将殿・・・。」
「そうですね、宮。少し早かったようですね・・・。しかしススキがちょうど見頃のようです。」
馬を河原に残し、帝は博雅を抱いて川に足をつける。そしてそっと博雅をおろし、足をつけさせる。
「兄上、とても冷たいね・・・。」
川から出た二人は、川に石を投げてみたり、二人で河原に座って話したりした。
「兄上、兄上の笛が聞きたいな・・・。持ってきているのでしょ?」
「ああ、あの龍笛は必ず身に着けるようにしているからね・・・。」
帝は笛を取り出すと、博雅を側に座らせて龍笛を吹く。博雅は遊び疲れたようで、帝にもたれかかっていつの間にか眠っていた。
「帝、帰りは私の馬に博雅を乗せましょう。」
そういうと、右大将は博雅を抱き上げて、馬に乗る。帝は龍笛を大事に懐になおし、馬に乗る。帰りはゆっくり都の様子を見ながら帰る。今まで見ることがなかった下々の生活が良くわかった。朱雀大路を上り、大内裏の朱雀門の前で帝は立ち止まり、改めて見つめる。様々な役人たちが、朱雀門を出入りし、帝の横を通り過ぎていく。もちろんこの者たちはここに帝がいるということは知らない。一部の武官の者達が、右大将に対し一礼をして通り過ぎていくのみである。
「右大将殿・・・。私はこの者たちの頂点に立っているのですね・・・。しかし知らない者たちが多い。本当に私はほんの一部に過ぎませんね・・・。」
と帝は苦笑する。
「もうそろそろ内裏にお帰りになられますか?」
「この半月、博雅とたくさん遊んで、帝としての堅苦しい生活を忘れることができた。本当に楽しい日々でしたよ。もうそろそろ・・・戻ろうかな・・・。博雅が悲しむかな・・・。」
帝は悲しそうに博雅を見つめると、再び内裏を眺めて二条院に向かって馬を歩かせた。
「右大将殿、このまま東三条の院の仮御在所に行ってもいいと思う?急に父上にお会いしたくなった。」
「しかしその狩衣では門衛が通してくれないでしょう・・・。」
すると博雅は目覚めたみたいで、帝の馬に乗ると駄々をこね、しょうがなく博雅を乗せかえる。すると急に帝は何かを思いついたように馬を走らせる。右大将は驚いて帝の後を追った。帝は二条院を過ぎ、東三条邸の西門の前につくと、門衛に言う。
「私は院の二の宮、雅和と申します。参議橘晃殿はこちらにおいでか?」
帝はだめもとで門衛に自分の名を明かし、院の側近橘晃を呼ぶ。
「院の二の宮様?あ!少々お待ちを!」
門衛はこの狩衣を着た青年を帝であると気がつくと急いで院付の参議を呼びに走る。参議はあわてて西門まで走ってくると、膝をついて帝に言う。
「宮様、突然この私をお呼び下さるとは・・・。」
「橘殿、突然このような格好でこちらに来てしまい、申し訳ありません。なんだか急に父上にお会いしたくなって・・・。取次ぎを頼みたいのですが・・・。右大将殿も一緒です。このような格好でも入れていただけるのでしょうか?」
「はい!どうぞこちらへ。」
参議は帝の馬を引いて、寝殿前の庭へ招き入れる。右大将は門で馬を下り、車宿りで待つ。帝は博雅を連れ、参議の案内で客間に通された。
「院はただいま執務中でございますので、少々こちらでお待ちを・・・。」
博雅は不思議そうな顔をして、部屋中を眺める。少し経つと、執務を早めに切り上げた院が入ってきて、帝の前に座る。
「雅和、突然の訪問に驚いてしまったよ。体のほうはいかがでしょう。」
「そうですね九分程度回復したと思います。今は体力をつけようといろいろやっていますが・・・。」
「本当に元気そうで安心しました。おや、そちらの若君は?」
帝は微笑んで、恥ずかしそうに帝の後ろに隠れる博雅。
「兄上、この人誰?」
帝は微笑みながら優しい口調で博雅に言う。
「博雅、このお方は私の父君です。」
「でも僕の父上は右大将だよ。」
「そうですね・・・。でも博雅と私の母上は同じなのです。まだちょっとわからないと思うけれど・・・。」
実は博雅はこの院の子である。帝の母宮がこの博雅を身籠ったまま後宮を離れ、右大将の正妻になった後、この博雅が生まれ、右大将の長男として育てられている。
「おお、その若君は右大将の・・・。」
「はい父上。右大将家の嫡男、源博雅君です。もうこのように大きくなったのです。」
「そうだね・・・。前会ったのはまだ赤ん坊のときだったね・・・。時が経つのは早い・・・。」
博雅は不思議そうな顔をして二人が話しているのを見つめる。博雅はだんだんつまらなくなってきたようで、部屋中をうろうろしだす。帝は表で待っている右大将を呼ぶと、博雅と先に帰るように言う。博雅はうれしそうに右大将とともに二条院に戻っていった。
「博雅君か・・・。本当に大きくなったね・・・。本来ならば私の七の宮として側に置きたかったが・・・。」
「そうですね・・・。でも堅苦しい親王の生活よりも、右大将の嫡男として育ったほうが幸せかもしれません・・・。」
「そうかもしれない・・・。いずれ七の宮であれば臣籍に下って生活しないといけない・・・。右大将の嫡男であれば・・・。本当に雅和は優しい子だ・・・。和子の若君に会わせてくれて・・・。もう会えないと思っていた・・・。ありがとう・・・。」
院は涙汲んで、帝の手を握り締めてお礼を言った。
「もうそろそろ二条院に戻らないと・・・母上や綾乃が心配するので・・・。父上、もうそろそろ内裏に戻ろうと思います。」
「そうか・・・。」
院は参議を供につけて帝を見送った。案の定、二条院内ではなかなか帰ってこない帝を心配して二条院の前で右大将の従者清原がうろうろしていた。すると帝の姿を見つけた清原は帝の馬に駆け寄っていう。
「宮様、いつまで東三条邸に・・・。右大将様と女王様が大変心配しておられます。」
「ああ、すまなかったね・・・清原。橘殿、ここでいいよ。」
すると参議は馬の引き綱を清原に渡して言う。
「右大将様の従者、清原殿ですか。私は院付の参議橘晃と申します。確かに宮様をお渡しいたしました。右大将様にこれを・・・。」
参議は院からの文を清原に渡すと、急いで東三条邸に向けて走っていった。清原は帝の馬を引き、二条院に入ると、帝の部屋の前まで引いていく。
「まあ帝、遅くまでどちらへ?皆様方はご心配されていたのですよ。それもそのような格好をされて・・・。」
心配そうに籐少納言は帝に詰め寄る。綾乃も心配した様子で、すのこ縁の手前まで出てきた。
「ちょっと東三条の父上に会ってきた。院の仮御在所だから、このような格好で入れてもらえるか心配だったけれど、ちょうど参議殿がいてね・・・。入れてもらった。籐少納言、心配させてすまなかったね・・・綾乃も・・・。」
帝は部屋に入ると、狩衣を脱ぎ直衣に着替える。そして綾乃の側に行くと、疲れた様子で言う。
「ねえ綾乃、膝を借りていいかな・・・。久しぶりの馬の遠出で疲れたよ・・・。」
「ええどうぞ・・・。」
帝は綾乃の膝枕で横になると、綾乃に言う。
「もうそろそろ内裏に戻ろう。十分静養させていただいた。いくら二条院は私の実家のようなものであっても今は右大将の邸だ。長居はいけないよね・・・。」
そういうと綾乃の頬に手をやると微笑む。
「雅和様。ええ戻りましょう・・・。でも内裏に戻られても、当分ご公務は控えてください・・。」
「うんわかっているよ・・・。最近綾乃も籐少納言のように心配性になったのかな?」
そういうと帝は苦笑して疲れからかいつの間にか眠ってしまった。
それから数日後、帝は非公式に内裏に戻り清涼殿に入った。清涼殿に帝が戻ってくることを聞いた鈴華は、清涼殿の藤壺女御の局で待っていた。清涼殿内がにぎやかになると、鈴華は我慢できずに局を出て昼の御座に向かい中に入る。ちょうど帝は綾乃と共に戻ってきたようだった。帝は鈴華に気づき声を掛ける。
「鈴華、今戻ったよ。長い間留守にして悪かったね・・・。」
鈴華は思わず涙ぐんで帝に飛びつく。帝は鈴華を抱きしめていう。
「鈴華・・・。とても寂しかったのだろうね・・・ごめん・・・。」
綾乃は鈴華の気持ちが痛いほどわかり、二人の再会に微笑んだ。
《作者からの一言》
非公式な右大将宅での静養です。もともとこちらは帝の母宮の実家で帝が生まれ育ったお邸です。本当は帝の同じ父の兄弟博雅。今は自分は右大将と和子女王の子だと思っています。将来は自分が誰の子なのか悟る日が来るかもしれませんね^^;