歩ける幸せ、見える幸せ、聞こえる幸せ | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
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 午前の明るい陽射しの中、初冬の空が広がり、落葉樹は、色づき、落葉する。そんな中を、散歩する。頭の中に去来するのは、小学生時代、こんな日を歩いていた記憶である。そうして、今、感じるのは、歩ける幸せである。この歳になっても、こうして、歩けることの幸せなのである。人にとって、歩けることは、普通である。しかし、そんな当たり前のことが、できない人もいる。

 

 

 15歳の時、私は、病に倒れた。微小変化型ネフローゼ症候群、今は、かなり治験数が増えて、そう恐れる病ではなくなった。しかし、当時の治療方針は、ステロイド、安静、塩分制限である。どうにもならなかった。今なら、最長3か月ぐらいで退院できるが、当時は、10カ月も入院せざるを得なかった。当然に、学校は、留年である。同級生は、みんな進学していった。その病院の隣に、高校があった。その窓から、その高校の正門がみえた。4月、桜がさいている門を、新入生たちが、歩いて入っていくのが見えた。私がその時、感じたのは、彼らへの羨望だった。それは、進学できることではなく、彼らが自由に歩いていられるそのことへの羨望だった。いまでも、その思いは強く心に残っている。だから、今、こうして、この歳になって、大きな病もなく、健康診断でも、特に治療する項目もなく、歩けること、それが、幸せなんだと、思えるのである。

 

 

 むかし、むかし、目の不自由な人のボランティアを行なったことがある。もう、かなり前になくなっているが、当時、今の私の年代ぐらいの人だった。目が見える人にとっては、目が見えることが当たり前である。しかし、目が不自由な人にとっては、それがどれほど、重要なことか、目が見えることが当たり前の人にはわからない。数年前、私は通販で、白杖をかった。目をつぶって、白杖をもって、会社の中に転がっている障害物をかわして、奥までいって、帰ってこられるか、トライしたことがある。ある程度はできるのは、どこになにがあるか、目で記憶しているからである。私は、白杖をもって、外を歩いてみようとおもったが、怖くてできなかった。

 

 

 世の中には、聴覚が不自由な人もいる。音が聞こえない人である。手話があって、人とのコミュニケーションはとれるが、それでも、美しい音の組み合わせが聴こえないのはやはり、哀しい。しかし、目の不自由な人に比べたら、外部の音を振動として、体に伝えることはできるから、目が見えて、歩ける人なら、まだ、いいかもしれない。ただ、外部の人は、どの人が、聴覚に障害をもっているかどうかは、わからない。

 

 

 歩ける事、見える事、聞こえる事、普通の人にとっては、当たり前である。しかし、世の中には、歩けない人、見えない人、聞こえない人が、たくさんいる。それでも、その人たちは、自分の命を全うできるように、頑張って生きている。歩けるなら、見えるなら、聞こえるなら、それができない人たちは、何度、その現実を呪いながら、自分の運命を受け入れたことだろうかと思う。歩けたなら、見えたなら、聞こえたなら、違う人生の夢を見れたはずである。人生が一回きりだと思うと、しかたがないことだと感じる。

 

 

 町をあるくと、時たま、一人で白杖をもって歩く人を見かける。特に、若い女性をみると、心の中で、がんばれと、言っている。私は、仕事柄、大学の先生、有名な研究所の偉い人、政治家、功名な僧侶等と会うことがある。しかし、何も、その人たちが偉い人だとは思わない。私は、白杖をもって、ひとりで、雑踏を歩いて生きている人達の方が偉いと思っている。その人たちの方がどれだけ、人として、尊厳を持って生きているか、その人たちを見ると、自然と私は頭が下がる。自分も、最後まで頑張らなければならないと思う。

 

 

 聞こえるなら、見えるなら、そして、歩けるなら、最後まで、与えられたその力を利用して、どんなことでも利他のために生きることである。利他のために生きることは、結局、自利にも通じる。生きることができて、初めて、世のため人のために、尽くすことができる。日本が明治維新後、頑張れたのは、幕末に若くして多くの同士がなくなったからである。戦後、日本が頑張れたのは、戦争中、特攻や学徒出陣で、多くの若い人がなくなったからである。生き残った人は、何をおもうのか、死んでいった人の分までがんばって、生きようとおもったからである。生きれる人は、生きたくても生きれなかった人の分まで、がんばっていきなければならない使命感を持つからである。

 

 

 私は、ときどき、若くして、病気で死んでいった友を思い出す。相当、苦しんだはずである。自分の病が治らないことも、いつ再発するか分からないその恐怖をも、抱きながら生きていた。そして、26歳の夏、ひとり、彼が好きだったマーラーの曲を聴いている時、突発の症状が起きて、そのままなくなった。筋ジストロフィーという病だった。それから、私は長く生きた。彼が経験できなかったことも、多く学んだ。山あり谷ありである。しかし、今でも、生きていられる。戦後復興して、日本経済を復興してきた人は、ほとんど、戦争中の修羅場をくぐってきた人である。その人たちは、戦友の事を忘れなかったはずである。今、日本がだめになるのは、歩けること、見えること、聞こえること、生きていられることが、当たり前のことだと、思っているからである。ハングリー精神のある人に、贅沢になれた人が勝てるわけがない。

 

 

 私は、むかし、天安門事件が起きる前に、仕事で、中国へ頻繁にいった。町をあるけば、日本の中古の車やバイクを整備していた。パーツがないから、自分達でつくり、動かしていた。機械油の匂いが町の中にあふれていた。殆どの人が貧しさから、脱却しようと頑張っていた。だから、今の中国の繁栄ぶりは、容易に想像がつく。必ず、歴史は繰り返す。いずれ、中国も贅沢になれて、それが当たり前となる。逆に日本の若者は、貧しくなっていくから、こんど、そこから脱却しようとする。みんな、がんばればいいと思う。